消費される刻印 〜 アンディ・ウォーホル展(森美術館)

  宇多田やYUKIの歌をぼくが好きなのは、そこに死や虚無がきちんと挿入されているからだ。光と影があってこそ優れたポップミュージックは人の心に刻印される、勝手にそう思っている。


  森美術館で開催中の「アンディ・ウォーホル展」で、もっとも驚いたのは、イラストレーターから芸術家への転身を目指したウォーホルにも、そんな光と影が交錯する時期があったこと。
  ちょうど、あの有名なキャンベルスープの缶のモチープを初めて作品にした1961年頃に(あの有名な一連の作品群より前に描かれ、絵の具があちこちで垂れていて、どこかオドロオドロしさを感じさせる)、「死と惨事」と題する作品をつくっていた。


  高層ビルから飛び降りる報道写真をグレーで塗りこめたり、刑務所の電気椅子を紫や赤などでコピーしている。また、あの有名なマリリン・モンローのカラフルな連作は、モンローの死を知らされた直後に製作されていた。また、ケネディ米国大統領の暗殺後、新聞や雑誌に掲載されたジャクリーヌ夫人の喜怒哀楽の表情を、白と青の二色で荒々しいタッチでコピーした作品も同じ。いずれも、そんなアップ・トゥー・デイトなものだとは知らなかった。


  これって大量に複製されることを前提にした、ウォーホル流の鎮魂の作法じゃなかったのか。それにはオリジナルな絵画よりも、むしろ人々がメディアを通してより見慣れている「写真」という素材である必然性があった。


  モンローやジャクリーヌ夫人(さらにはケネディ本人)の存在と死を時代に刻むために、たとえ今後も長く、無造作に複製されつづけて時代背景や製作動機がかき消されたとしても、人々の脳裏に自分の作品を通して彼女たちの記憶を残す。薄められ漂白されペラペラになってもなお、そのイメージだけは残すための複製(ポップアート)ではなかったか。