泥んこ遊びの報酬


  雲ひとつない夕焼けに向かって京葉道路を都心方面に向かいながら、ベット・ミドラーの「男が女を愛する時」がカーラジオから流れて来た。田んぼ作業で程よく疲れた身体に、聴く者をなぎ倒すようなミドラーのボーカルが沁み渡る。オジさんたちの泥んこ遊びの終わりにもとてもふさわしかった。


  全身で旋律にぶつかるようなミドラーの歌と、田植え前に黙々と取り組んだ雑草とりと代掻き(田んぼの表面を平にならす作業)は、よりよく生きるという点でしっかりと共鳴していた。
  どちらも理由はない。歌いたいから、おいしいお米をつくりたいから、その衝動にも似た想いをただまっすぐに生きるとき、いのちはきっと高鳴っているはずでそこに有名も無名もない。


  田んぼの分けつしている雑草は浅く広く根を張っている分、取りやすい。スコップを外側から斜めに差し入れて、根っこを残さずきれいに除ける。もちろん、養分をたっぷり含んだ根の間の粘土はできるかぎりこそげ落として田んぼに戻し、草は畦道に放り投げる。


  むしろやっかいなのは二本の緑色の茎がひょろっと表面に伸びている雑草。じつはこれ、地中に縦横無尽に根を走らせ、なおかつ数珠つなぎのように伸びていて、うまく取らないと根っこだけを地中に残してしまう。これが田植えを終えてからしたたかに繁殖して、苗が吸収すべき養分を横取りしてしまうからだ。


  一見ささいに見える雑草のほうが根が深くてやっかいだ。田んぼを渡る風を頬に受け、蛙の高らかな鳴き声に包まれながら、腰を下ろしてもの言わぬ彼ら(彼女ら?)と向き合うとき、まるで人の癖のようだとふと思う。


  ふいに始まる貧乏ゆすりや、無意識に爪の甘皮を剥いたり舌打ちしたり、ボクシングの試合を見てると自然に上半身が動いたりと、性格的欠陥以上に、そんな些末な癖のほうが始末が悪い。習慣がその人生をつくるのならまったくロクなもんじゃないと、人気(ひとけ)のない里山でひそかに自問する静かな時間の輝きがなぜかすでに懐かしく、ミドラーの歌とともに思い返された。