ブーメランのように 〜堀川恵子『教誨師』(講談社)

木内三郎が処刑されたのは、それから暫くしてからだ。
ひらがなとカタカナをすっかりマスターし、漢字を幾つか覚え始めた頃だった。最後の瞬間まで大きな体をブルブル震わせて、両目なみなみと涙を溜めていた。
 すべてが終わり、冷たい地下室に下りると、すっかり冷たくなった木内の身体を白衣の男たちが取り囲んでいた。生前、木内はせめてもの償いにと大学病院に献体する誓約書を書き、アイバンクにも登録していた。もはや新鮮な臓器の提供場所となったその身体に、容赦ない作業が加えられている。暫くして両方の目玉が取り出された。その様子を見守りながら渡邉は生前、いつになく真剣な表情で尋ねてきた木内の言葉を思い出していた。
「先生?私の身体で手術の練習をして若いお医者様が、将来、誰か病気の人の命を救ったとしたら、私も人の役に立ったということになりますか?私の目が誰かに使われて、その人が幸せになったら、私の罪は少しでも許されますか?」


    死刑囚との対話を重ねて、仏教の立場から正しい道に導く教誨師、その口から語られた死刑囚との交流と最期が描かれている。過不足ない筆短情長の文章は淡々としていながら、その背後に静かな哀愁を感じさせる。


    自分の死後の公開を前提に、教誨師を務めた僧侶への聞き書きを重ねた一冊。逮捕までは夥しい情報が氾濫するも、逮捕後から死刑までは何の情報もなく、”極悪人”のまま逝く死刑囚たち。その彼ら彼女らに寄り添いつづけた人物だからこそ語り尽くせる物語の一端を冒頭で紹介した。


    だが、この本の最大の魅力は、その教誨師アルコール中毒を病んでから開ける視野とたどり着く境地にある。人が人にできることは、人が人にしてもらうことは表と裏でたいした誤差もない。そんなささいでありふれたことに気づくために、人はどれほど膨大な時間と労力と苦しみを費やす必要があるのか、と深くて長い溜め息がもれる。


教誨師

教誨師