サルサソースと暇と退屈と胸さわぎ〜國分功一郎『暇と退屈の倫理学』

    うんざりする猛暑を束の間忘れさせてくれるのが、メキシコ製のサルサソース。とろけるチーズを載せた焼きトーストの上に、このソースをかけてガブリッでもじゅうぶんイケる。


    さらにキンピラゴボウや、ナスのサラダ煮(サラダ油でしんなりするまでソテーして、ポン酢と砂糖、赤唐辛子少々に浸して出来上がり)を載せて、野菜ハンバーガー風にしてもうまい。というか、クセになる。


    一方、第4章すぎからハマりかけているのが、國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』。世間の流れからは、周回遅れ気味だけど・・・・・・。
    この章では映画『パンチクラブ』を素材にしながら、「消費社会では退屈と消費が相互依存している。終わらない消費や退屈を紛らわすためのものだが、同時に退屈を作り出す。退屈は消費を促し、消費は退屈を生む。ここに暇が入り込む余地はない」と書く。
    

    なぜなら「暇」とは、退屈を恐れず、むしろ退屈を楽しみ慈しむ態度だから。まず、この「暇」の反転のさせ方にドキッとさせられる。そのナイフの刃先がぼくに向けられているからだ。


    だが、ここまでなら、まだ驚かない。
    國分さんはつづいて、これに「疎外」という言葉を加える。そう、人が本来の姿を喪失した状態のことを意味するアレ。「労働者の疎外」とか。


    「消費社会における疎外は、だれかがだれかによって虐げられていることではないからである。(中略)たしかに、ある意味で消費者は消費を強制されている。広告で煽られ、消費のゲームに参入することを強いられている。(中略)消費者は自分で自分たちを追い詰めるサイクルを必死で回し続けている。人間がだれかに蝕まれているのではなく、人間が自分を蝕むのが消費社会における疎外であるのだ」


    ここまでくると、おお〜っとなる。
    この「消費」が、「健康」や「若さ」や「幸せ」、あるいは「忙しくて充実した毎日」や「100kmマラソン」とも交換可能な言葉だという、一連の文章の行間に触れるとき、冒頭のサルサソース同様に胸がざわつく。