アンバランスなバランス 〜 オリヴィエ・ベラミー著・藤本優子訳『マルタ・アルゲリッチ 子供と魔法』(音楽之友社

マルタアルゲリッチ 子供と魔法

マルタアルゲリッチ 子供と魔法



 Apple Musicのリコメンドの中から選ぶと、思わず背筋が伸びるような毅然さと繊細さがギュッと詰まったピアノの旋律が流れてきた。ぼくが好きなバッハのパルティータ第2番だったから、なおさら心惹かれた。「マルタ・アルゲリッチ」という名前は以前から見聞きしていたが、その演奏を聴いてみようと思ったことはとくになかった分、好奇心が一気に増した。
 若い頃のアルゲリッチの、童顔ながら向き合う相手を丸裸にしてしまいそうな視線のモノクロ写真の装幀と、白抜きの明朝体で小さく印字された「マルタ・アルゲリッチ 子供と魔法」という表題のバランスが絶妙で、ジャケ買いっぽく手を伸ばしたのがこの一冊。


 60歳を越えてなお、演奏直前で「だめよ、無理」と泣きじゃくる天才肌の演奏家の脆すぎる一面から導入する序章がうまい。この書き手なら、という信頼感がふくらむ。実際に24歳でショパン・コンクール優勝を果たした天才肌の「光」と、恋愛には中高生レベル以下の無防備さを見せる「影」のコントラストも鮮やかで、下世話な読者としても食指をそそられる。その演奏の「魔法」っぷりと、ドタキャンで有名な演奏家としての「子供」っぷりは、本書の中でも旋律の高音部と低音部のように並走している。


 彼女の演奏力に惹きつけられて生活を共にすると、ピアニストとしての劣等感が膨れ上がって壊れていく男たちの無残さも克明に描かれていて、優れた芸術家であることと、実人生の幸福の交差点をなかなか見出せない。「天才ゆえの孤独」は演歌のサビほどにも使い古されたフレーズだが、読者として目の当たりにすると心臓を爪で少しつねられたみたいにやるせない。ベラミー氏の取材力と構成力が冴えわたっている。


「白髪の冠は彼女の顔を明るくし、奇妙なことに、かえって若々しく見える。『少しおかしな老婦人になりたいの、やりすぎない程度にね』と若かった頃に言っていた。いつも身につけているウールの組紐ブレスレット、安物のネックレス、色とりどりの布バッグ、サリー風のワンピース。マルタは人からにやりと笑われることを恐れない。それは本物であることの代償だ。」


 292ページまで読み進めてきてこの文章に出くわすと、背後に静かに微笑みながらたたずむ76歳のアルゲリッチと向き合っているような気がしてゾクゾクした。