向田邦子『あ・うん』〜「帯に短し襷(たすき)に長し」な人生の哀歓

新装版 あ・うん (文春文庫) 
 義父が読みたいと話すので、まず単行本を探したが、紀伊国屋書店に問い合わせるともう絶版だというので、文春文庫版を買い求めた。義父は、映画とテレビドラマで観ていて、原作を読みたくなったらしい。
 義父が読み終えた後、なにげなくページをめくり出したら止まらなくなってしまった。向田さんの作品は、『父の詫び状』しか読んだことがなかったが、あれも名エッセイだけれど、『あ・うん』の完成度の高さには及ばないな。
 一組の夫婦と、夫の戦友で、まさに「あ・うん」の仲である親友を交えた三人の物語だ。夫はお世辞にもハンサムとはいいがたい癇癪もちの会社員で、一方の親友は既婚者だが、すこぶる男前で、羽振りのいい企業経営者。おまけに彼の奥さんに密かな好意をもっていて、一方の奥さんも夫に尽くしながらも、親友に密かな心惹かれるものを感じている。
 そんな危うい三角関係になりそうな構図で、しかも三人がそのことを互いに知りながらも、三者三様の理性と分別を働かせて、円満な関係を保ちつづけている。そこもまた、「あ・うん」の関係なのだ。
 だが、その寸止めの関係が時折揺らぐ。それは親友の浮気や、奥さんの妊娠や、地味な夫の浮気などがきっかけなのだけれど、その都度、誰かの分別のたがが外れそうになり、抑制されているはずの感情が軋み、こぼれ落ちる。
 たとえば、その親友の会社が倒産し、それを夫婦に告げに来る場面はこうだ。目は血走り、無精ひげが伸びた親友がやってくる。

「むさ苦しいとこ、お目にかけてすみません。今まで債権者にやられていたもんだから。一番先に奥さんに知らせたくて」
 たみは、襟にかけていた手拭いをはずして、門倉に渡した。髪のしずくを拭いてもらいたかった。それから、台所へ走った。灯を節約した暗い廊下を、別珍の臙脂の足袋が走った。一升瓶とコップを掴むと取ってかえし、手拭いで濡れた肩を拭いている門倉にコップを持たせた。なみなみと、あふれかえるほど酒をついだ。
「素寒貧になったけど、奥さん、今まで通りつきあってもらえますか」
「門倉さん、あたし、うれしいのよ」
 一升瓶を抱えるようにして、たみは言った。
「門倉さんの仕事がお盛んなのはいいけど、うちのお父さんと開きがあり過ぎて、あたし、辛かった。口惜しかった。これで同じだとおもうと、うれしい」
「ありがとうございます。いただきます」
 門倉はぐっとひと息にあけた。
 もしかしたら、これは、ラブ・シーンというものではないか。梯子段の途中までおりかけ、そこでためらっていた素足のさと子(長女)は息が苦しくなった。

 こんな「ラブ・シーン」を、ぼくは今まで読んだことがない。
 また、長女に三人の関係を俯瞰させている点も上手い。互いの気持ちを直接的な言葉にしないがうえに、立ち上ってくる哀歓がある。
 程度の差こそあれ、誰もが「帯に短したすきに長し」な命を生きている。他人とくらべても仕方がないから、その過不足をこそ抱えて進まなくてはいけない。この物語の三人の登場人物は、「私」や「あなた」でもある。