作・山崎哲&岩崎智紀、演出・山崎哲『アキバ、飛べ―秋葉原無差別殺傷事件』(中野・光座)今月15日まで


 あの事件が起きた数日後、東京新聞に、加藤某がケータイから時々刻々送信したコトバが載っていた。B4大ぐらいのスペースで、事件前後に彼が誰にともなく送りつけたもの。
 具体的なディテールは忘れた。が、その怨嗟の血判状みたいなコトバたちは、読み終えたぼくの心臓をわしづかみにして、ひねり潰しにかかった。やるせなくなると同時に、とてもげんなりした。深いため息をひとつつき、ぼくはたちまち、いろんなやる気が失せた。その記憶は今なお鮮明だ。


 その事件をモチーフにした山崎さんの芝居を観に行った。山崎さんの芝居を一度観てみたかったのもある。廃墟のような元映画館での上演というのにも心惹かれた。岸田戯曲賞作家の矜持を感じさせたから。


 結論から書くと、芝居そのものは唐さんのそれを彷彿とさせる70年代風(?)。芝居終盤に出演者に読み上げられた、冒頭の加藤某のコトバを超えて、ぼくの胸に刺さるコトバはなかった。
 そのとき初めて、加藤某がケータイで時々刻々送信したコトバが、かなり強力な詩だったことに、遅まきながら気付いた。馬鹿だな、おれ。彼の犯罪の社会的な是非とは無関係に、あのコトバの詩情はこれからも世の中に残りつづけるだろう。


 一方、舞台三面の壁を使って描かれる殺伐たる自動車工場現場に、メイドカフェのメイドたちが乱入する場面が、「世の中の仕組み」を凝縮していて面白かった。
 あとは、加藤某が、自分のツナギがなくなっていて、現場責任者に「つなぎ隠したりして解雇していく、そういうことっすか!・・・・・・」と詰め寄る場面が、グッときた。台詞ではなく、その役者の吠え立てる声そのものが、ぼくの胸に刺さった。演技の巧拙以上に、演劇とは声で、その場かぎりで消えていく声の詩だった。


 文章において、演劇の「声」に対抗しうるものは何か。
 帰り道で考えた。・・・・・・・書かない言葉しかない、書かないことで伝える何か。それが難しい。