久田恵『フィリピーナを愛した男たち』文藝春秋刊〜騙(だま)し船みたいな現実の醍醐味

rosa412004-10-23

 ぼくの視野は狭くて頼りない。さらに始末が悪いのは、その自覚に欠けることだ。いろんな人に会って話を聞くのが仕事だから、普通の人よりは間口が広くて、考え方にも柔軟性があると、どうやら無意識に思い込んでいるふしがある。我ながら始末が悪い。むしろ、先入観や偏見の強さは人一倍かも、とさえ近頃思う。
 だから街でフィリピーナと日本の中年男のカップルを見かけると、なんか彼らが「円」や「札束」でつながっているようにぼくは見ていた。そんな偏見の塊だったことを、久田さんの本に教えられた。ああ、またかよと自分にうんざりしてしまう。


 近所の図書館で、久田さんの『フィリピーナを愛した男たち』を借りて読んだ。大宅壮一ノンフィクション賞受賞作だ。拙著のシンポジウムにも参席していただき、最近、ある雑誌の取材でもお会いして話をうかがったこともあって手に取った。諸先輩の仕事を少しずつ体感したいと考えていたタイミングでもあった。


 この本には、8組の日本人男性とフィリピン女性の夫婦が登場する。たとえば、バツニの中年男が15歳以上も年下のフィリピーナと育む純愛や、女性不信だった銀行マンが、極貧から成り上がったフィリピーナやその連れ子たちと、実にほがらかな家庭を築く物語もある。むしろ、下手な日本人夫婦よりははるかに愛情豊かで、純粋な夫婦の絆が描かれている。
 それは折り紙で作る騙(だま)し船みたいに、最初は船のマストをつかんでいるつもりが、気がついたらそれが舳先(へさき)に変わっていたりするときに似た戸惑いを、多くの読者に与えるにちがいない。
 一方で、フィリピーナたちのしたたかさと、ほとばしる生命力のシャワーが、文章のあちこちから噴き出していて、何度も苦笑いさせられたり、はぁ〜と溜息をつかされる。こんなに心地よく、予想を裏切られてしまうノンフィクションは久しぶりだ。

 
 読みすすめながら、偏狭な目で彼らを見ていた自分こそが、薄汚かったことをぼくは思い知らされた。


「性を買うもの、売るもの、客とホステス、加害者と被害者。こういった構図のみで常に語られ続けてきた出稼ぎ女性と日本人男性との関係のありようも、彼らの恋愛や結婚という個別なケースを丹念に辿ってみれば、そこから、またひとつ別の新しい両者の関係のありようが見えてくるのでないか、そう思った」
 と久田さん自身がその取材動機を書かれている。まさに狙い的中だ。


 現実の反対語は理想だといわれる。だが、その間にもうひとつ、新たな現実というものがある。それは国境や入管審査やビザといった現実の障害や制約を、もちろん、世間の偏見をも軽々と飛び越えて築かれていく。そして気がついたときには、彼らをあざ笑っていた私やあなたが、彼らにひどく笑われていたりする。現実はアンフェアなことも確かに多いが、フェアなことも意外と多い。そこに希望のつぼみも根をのばしている。
 自分のそれまでの見方ががらがらと崩れ落ち、その向こう側にしたたかで、豊穣な新たな光景が不意に現れる。自分のちっぽけな世界に風穴があけられ、その風通しが少し良くなるときの、あの読書の幸福感を、間違いなく与えてくれる一冊だ。

 
 また、著者のあとがきを読んで、作家に転身した、あの白石一文さんが、この本の担当編集だったことも知った。

フィリッピーナを愛した男たち