共に働くことの意味

rosa412006-10-11

 思いがけず、すてきな言葉に出会う。
 たしか、それは早朝6時半頃だった。5時半から始めた牛の餌の準備を終えて、搾乳をおえた牛たちがそれぞれの場所で餌をもぐもぐと頬張っていた。
「新しい人と仕事すると勉強になります」
 19歳の研修生がふいに言う。自分はガキの頃から、牛とともにいて物心ついたら餌をあげていたから、とても要領よく早いのだと。彼の実家は道内で大規模な牧場を運営していて、彼はその一人っ子。将来、家業を継ぐつもりだ。ぼくが働いていた牧場では、牛の餌はだいたいブリキのバケツに入れて、約40頭分ほどを個別に撒いていく。
 彼の動きは早くて無駄がない。バケツに入った各種の餌を、牛舎を小走りしながら均等に撒いていくのはけっこう難しいのだ。だが彼は見事にそれを実践してみせる。
「でも要領がいい分だけ、どっかいい加減なんですよ。さっきからアラカワさんが、それぞれの牛が食べやすいようにほうきで餌を掃き集めてるじゃないですか。ああいう発想はぼくにはなかったですから。だから素人の人と一緒に仕事すると、たまにそんな発見があるんですよ」
 思いがけずにホメられて、ぼくは気恥ずかしかった。だが同時に、その発見ができる彼の柔らかな感受性がとてもすてきに思える。ベテランだからこそ新人から学ぶ姿勢をもつ。それは言うほど簡単じゃない。共に働くことの意味はそんなところにも転がっている。
 言葉は嘘をつくけど、やっぱりつかない―こんな言葉に出会うと改めてそう思う。そしてかりそめにも、「文章屋」という名刺一枚で生きている自分の仕事に、そんな要領の良さといい加減さは同居していないかと思いをはせる。