旋律として、あるいは詩としての輝き〜高橋源一郎著『非常時のことば』

 名作『さよなら、ギャングたち』以来、ひさびさに手にした高橋本は、「3・11」を機に言葉を失った高橋さんが、古今東西の非常時に遭遇して書かれた美しい言葉たちを集めた一冊。

 文章を読む際、つい意味に重きをおいてしまいがちな読者をよそに、幼き水俣病患者を題材とする文章に、美しい旋律を聴きとる石牟礼道子(いしむれみちこ)さんの『苦海浄土』が引用されている。昭和30年時点で、わずか9歳で胎児性水俣病を患う孫を両手に抱きながら、自らは年老いて彼を守り切れない哀惜を胸に祖父は、彼を「仏さん」と呼ぶ。

こやつは家族のもんに、いっぺんも逆らうちゅうこつがなか。口もひとくちもきけん、めしも自分で食やならん、便所もゆきゃならん。それでも目はみえ、耳は人一倍ほげて、魂は底の知れんごて深うござす。一ぺんくらい、わしどもに逆ろうたり、いやちゅうたり、ひねくれたりしてよかそうなもんじゃが、ただただ、家のもんに心配かけんごと気い使うて、仏さんのごて笑うとりますがな。それじゃなからんば、いかにも悲しかよな眼(本文は旧字)ば青々させて、わしどもにゃみえんところば、ひとりでいつまっでん見入っとる。これの気持ちがなあ、ひとくちも出しならん。何ば思いよるか、わしゃたまらん

 不治の病に苦しみ、言葉さえ交わせない孫に、底知れない魂の深さを看破し、それを「仏さん」と表現する。漁師として長年生きて来た祖父自身の魂の深き震えを、石牟礼さんは韻をふんだ旋律として聴きとり、その意味以上に、切なくて美しい響きとして読者にとどけてくれる。
 
 第三者が「悲惨」の一言で片付けてしまいそうな非常時だからこそ、一人の老漁師の口から生まれ出る詩情。それは「がんばろう、日本」なんてフレーズを蹴散らして、言葉の不思議な輝きを目の前に突きつけてくる。

非常時のことば 震災の後で

非常時のことば 震災の後で