つながる

 友人から真砂秀朗さんの『畦道じかん』(テン・ブックス)という本をいただいた。アーティスト兼ミュージシャンで、なおかつ冬期湛水不耕起田んぼでの、お米作りを十数年つづけている方。畦道(あぜみち)という視点から自然と人の、経済といのちの関係を詩的な散文でつづられている。ど素人のお米作り3年目にはわかるわかるという部分と、「・・・う〜ん」な部分がある。


「衣食住を通してぼくたちは世界と繋がっていて、自分の衣食住のあり方が社会をつくっている、というシンプルな答え」
 たとえば、この一文が好例。そうだよなぁと共感するところと、「自分の衣食住のあり方が社会をつくっている」とまでいわれると、そ、そうかなぁ・・・とも思う。


 食については近頃少し想像力がついてきた。自分が食べるお米を自分で作ることで(実際には数ヵ月分程度の量でしかなくても)、田んぼをきれいだと思う感受性が身についた。スーパーで並んでいる米袋の向こう側に、額に汗して田植えや稲刈り、あるいは除草や天日干し(どれもしていないかもしれないけれど)をする人たちの姿がうっすらと想い浮かぶようになった。もちろん、消費者としてその値引き率にも相変わらず目はいくのだけれど。あるいは、梅ジュースや梅ジャムを作れる自分のほうが、作ろうとしなかった自分よりイイじゃんとも思う、それは知識でも情報でもなくて、暮らしの知恵だから。

 
 だが衣や住については、「世界と繋がっていて」と書かれても、なかなかピンとこない。そんなとき、手持ち無沙汰でひさしぶりに手にした幸田文著『季節のかたみ』をパラパラとめくっていて、ハッとさせられた。その熟練の随筆集の「手抜き」の項で、母親が病弱だったため、小さい頃から家事全般をしつけられた思い出がひとしきり語られ、その手抜きぶりが出てくる。
 予定より食事する人数が増えて、おかずがなど足りなくなったときなら、一人前のさしみを二人前に分割し、ちょっとした添え物をあしらって、見てくれよく出し、ご飯が足りなければ、追炊きなど面倒なことはせず、お冷やをまぜて分量を増やし蒸し器にかければそれで済む、といった対処の仕方だ。


 今風に書けば、デキる娘さん(あるいは奥さん)ということになるのだが、幸田さんは、それはたしかに一種の知恵であり、才覚の力といえますと書いたうえでこう続ける。
「が、才の走りはあっても、心情うつくしきものとはいえません。物が食物だけに、よけい品性いやしくみえます。少しましになった、少しできるようになったという時期に、なぜこういういやらしいことをするんでしょう」と。


 彼女がそう省みる背景には、父・幸田露伴の手厳しくも温かな眼差しがある。娘の気働きをほめながらも、父はこう言い添えることを忘れない人だったからだ。

一時しのぎの取り繕い掃除は、もういい加減にしておきなさい。毎日の暮らしのうちには、そういう間に合わせの才覚も必要だし、それはそれなりに一種の能力ともいっていえないことはないが、およそ能力、技術、心ざまにはすべて、曲直もあれば、品格の上下も自然と現れる。掃除の骨惜しみなど愚劣なことで、なにも自分の品格をいやしくすることはないじゃないか。それより、間に合わなければそれまでとして、あからさまに詫びて、埃の座敷に客を招じるだけの心得をしたほうがよかろうと、すぱっとやられました。


 たかが掃除、されど掃除。なんとも怖い父の目だけれど、ありがたい目でもある。こういう眼の持ち主だからこそ、その文章は時代をへて読み継がれるのかと溜息がもれる反面、衣食住はそうして自分を映し、なおかつ世の中とつながっているのかと思うと、たしかにゾッとする、我が身をふりかえると惨憺たるものだから。
 文化とは美術館や映画館に行くことだけではなく、日々をどう暮すのかということをもひっくるめたものだった時代が、この国にもあったことを思い知らされる。
 お掃除ロボットだとか、スマホで自宅のあれこれを操作する便利さの浅はかさも、くっきりと見えてくる。その愚劣さの先に原発もある。

季節のかたみ

季節のかたみ