葛藤という花〜マキノノゾミ著『東京原子核クラブ』(ハヤカワ文庫)

 
  今、世間で何かと話題の理化学研究所モノ。例の話とは一見何の関係もないようでいて、じつはちょっぴりあるような演劇脚本を08年に文庫本化したもの。ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎の青春時代を舞台に、原爆製造をめぐる科学者たちの情熱と狂気を描いていて、97年の読売文学賞受賞の演劇でもある。


  理研のメンバーなどが暮らす下宿「平和館」の戦後の場面。戦地で亡くなった友人もいれば、生き残ったものもいる中で、先の朝永をモデルとするエリート研究者・友田と、その下宿屋の娘で、理研に入りたかったが夢がかなわなかった桐子との会話。少し長いが引用する。

友田 ・・・・・・僕たちが手に入れた知識は、もう二度と失くすこと   の出来ない知識だよ。たとえ、それが罪だと知ってもね。

小森(理研の後輩)・・・・・・・

桐子 罪?・・・・・・そんな簡単な言葉で済ませてしまえるものなん   ですか。

友田 僕は一個の物理学者として、桐子さんと同じ立場には立てませ    ん。西田先生ではなく、たとえこの僕が爆弾製造の指揮を執って   いたとしても、僕は恐らく広島や長崎の人たちに顔向けできない   ということはありません。

桐子 ・・・・・・

友田 人間の大脳皮質が発達を続ける限り、自然法則の探求を止めるこ   とは不可能だからです。・・・・・・広島のニュースを聞いた    時、僕が一番最初に感じたのは、小森君とまったく同じ興奮で    す。同時に、これから始まる世界の原子力時代に、我々日本の物   理学者が後れを取ったことを悲しく考えてさえいました。その爆   発の下で死んだ何万人もの同胞の命に真っ先には思いが至らなか   ったことに、あとで気づいて慄然としたくらいです。

桐子 ・・・・・・

友田 けれど、桐子さんの言葉は、まっとうな人間の言葉だと思います。それこそが、まっとうな人間の口から出る、ごく当たり前の言葉なんだということだけは、肝に銘じておきます。そうでなければ・・・・・・

ーー間

小森 ・・・・・・友田さん?

友田 ・・・・・・それでなければ、きっと・・・・・・誰が橋場君(ニセ東大野球部員)や林田君(東大野球部員)を殺したのか、わからないようになってしまう。

  倫理と狂気の葛藤の真っ只中でこそ立ち上る詩情がある。もちろん、科学の邪悪さを批判するつもりは毛頭ない。
  僕も先日、ある取材先で、自分の邪悪な部分を顔を真っ赤にして涙しながら勇気をふるって告白してくれた女性を前に「申し訳ない」と思う僕と、「これこれ、この話がやっと聴けたぜぇ!」と歓喜する2人の僕がいた。じゅうぶんにヤクザな仕事ぶりだ。

 
 いや、職業とは無関係に、他人の幸福を微笑ましく思う部分と、どこかつまらなく感じる邪悪な部分は、程度の差こそあれ誰の心の中にもあるだろう。その狭間を揺れ続けるしかない人間という動物を写しとる方法として、演劇や文学は今までも、これからも生き残っていく。