車窓の天の河

「ねえ、あんた、私をいい女だって言ったわね。行っちゃう人が、なぜそんなこと言って、教えとくの?」
 駒子が簪(かんざし)をぷすりぷすり畳に突き刺していたのを、島村は思い出した。
「泣いたわ。うちへ帰ってからも泣いたわ。あんたと離れるのこわいわ。だけどもう早く行っちゃいなさい。言われて泣いたこと、私忘れないから。」
 駒子の聞きちがえで、かえって女の体の底まで食い入った言葉を思うと、島村は未練に締めつけられるようだったが、俄に火事場の人声が聞こえて来た。


 金曜の夜の10時過ぎ、目黒から恵比寿に向かう車内でこの場面に来たときにグッときた。雪深い温泉の町の芸者、駒子の「言われて泣いたこと、私忘れないから」という啖呵に胸を突かれた。
 川端の『雪国』は、ここから冬の夜空に現れた天の河と、映写会をしていた繭蔵から出た大火事を借景に、駒子と島村の疾走場面へ展開していく。その大火事は、妻子持ちの島村と駒子の、成就することのない逢瀬の比喩として対置されている。


 山手線の車窓には、天の河の代わりに、頭を垂れてスマホに見入る大人たちが浮かんでいた。視線を落とすと、7人掛けの椅子でも、金田一春彦の文庫本を開いている60代とおぼしき男性を除く全員が、一様にスマホの画面に魅了されていた。


 ふいにエタ・ジェームスの『At Last』が聴きたくなった。しゃがれた声で、そして時おり叩き付けるように「やっと、あんたをモノにできたんだもの」と歌いながら、なぜか別れをすでに織り込んでいて、だからこそ輝きを増すようなあの歌を。


やっと思いが通じたよ
もうこれからはひとりじゃないし
歌のなかに出てくるような
素晴らしい人生が
これから先に待っている
空もようやく晴れ上がり
青空が見えてきた