本橋成一写真集『生命の旋律』(毎日新聞社刊)〜生きる知恵が、消えてしまわないうちに

rosa412004-05-24

 ページをめくる度に、好きだなぁという気持ちが、心のどこかから、じわじわと地下水みたいに染み出してくる。モノクロの本橋さんの写真もいいが、久しぶりに見るカラー写真の優しい質感と、そこに写っている市井の人たちの確固たる生き様、そのバランス感覚がとてもいい。
 たとえば、20歳の頃、一度町へ出て、二年ほど運転手をしてから、伊豆半島下田市で両親が育てるワサビ田を引き継ごうと決めた男性(42歳)は、こう話す。
「何もないと思っていたけど、ここにはきれいな水と空気、豊かな自然がある」
 そんな文章の隣に、72歳と68歳の両親とともに、青々としてワサビ葉の中に、どこか誇らしげな表情で、ジャンパーと黒の長靴姿の彼がまっすぐな視線を投げかけてくる。その力強い視線に戸惑ってしまうのは、きっと、ぼくだけではないはずだ。
 長野県長野市善光寺近くの洋傘専門店の主人(70歳)は、「最近は100円ショップにも傘はある。けれど、人の好みは使い捨てか、高くてもよいものか。二つに分かれている」と語る。そして本橋さんの文章はこう結ばれている。

 店には「傘にしてほしい」と、お気に入りのスカーフや形見の着物を持ってくる女性もいる。老いた母の誕生祝いに日傘を特注する男性もある。良洋さん(主人、荒川注)が布を断ち、林子さん(奥さん、同注)が大正初期のドイツ製ミシンで縫う。できた傘を持つ人は、写真の中でみな満ち足りた顔をしている。
 傘を忘れて問い合わせをしない人が多い今日、こんな心の贅沢があったのかと、うれしい気持ちになった。

 どきっとした。ぼくの家の下駄箱にも、実は500円のビニール傘などがけっこう使われないまま、しまわれていたからだ。知らない間に、使い捨て文化に汚染されている自分を、その洋傘店の夫妻に見透かされたような気持ちになった。
 まるで両手の間から水がこぼれ落ちるみたいに、「便利」とか「安い」という言葉の向こう側で、こりゃあ、日々見失っているものはたくさんあるぞぉ、と思ってぼくは一度ため息をついてしまう。やれやれ。
 ちなみに、タイトルにある「生きる知恵が、消えてしまわないうちに」とは、この写真集のオレンジの腰巻に書かれた、坂本龍一さんがこの写真集に寄せた言葉だ。
 旧ソ連チェルノブイリ原発事故の被災地に、今なお暮らす村人たちを撮影した、本橋さん監督のドキュメンタリー映画『アレクセイと泉』。同映画は、02年にベルリン国際映画祭でベルリナー新聞賞を受賞したが、その映画音楽を、坂本さんが担当している。
追記)本橋成一作品集一覧
http://www.ne.jp/asahi/polepole/times/polepole/index.html