洲之内徹『気まぐれ美術館』〜Nedoko De Dokusyo(3):「自由」と「自在」とジェームス・ブラウン

気まぐれ美術館 (新潮文庫)

気まぐれ美術館 (新潮文庫)

 
 忘れもしない。日比谷線銀座駅で、電車に乗るのも億劫になり、駅のベンチに座り込んで読みつづけ、途中で涙がこぼれそうになるのを必死でこらえた。そんな出来事があった。 昼間だったから、取材に出かける途中だったと思う。丸の内線からずっと読んでいて、日比谷線に乗り換えたところだった。『気まぐれ美術館』の「京都」という話だ。久しぶりに新潮文庫をめくると、冒頭の目次で「京都」の上に黒い丸印がある。
 洲之内さんが亡くなってからまとめられた一冊で、ぼくの好きな白洲正子さんが、あとがきを書いている。その彼女の文章にもあるけれど、小林秀雄が「今一番の評論家」だといい、青山二郎も「芸術新潮では洲之内しか読まない」と言わしめた画廊主であり、迷文かつ名文家。元々、「芸術新潮」で連載されていた文章だ。

画面の裏にかくされた作者のもう一つの自画像を、発見する悦びも教えてくれる。絵にはオンチの私が、何度洲之内さんに物の見かたを教わったことか。それは自分の生きかたを離れたところに芸術も文化もないということで、「気まぐれ美術館」も、現代画廊も、彼の飄々とした人生の表れに他ならなかった。

 白洲さんもそう書いている。現代画廊とは、洲之内さんが銀座で経営していた小さくてボロイ貸し画廊のことだ。ぼくは「自由」と「自在」ということの意味を、彼の文章から教わった。
 朝起きて生暖かい布団の中で、「京都」を読み返してみると、鼻の奥の粘膜は少しツンとしたが、涙腺はゆるまなかった。宇野政孝の京都でのスケッチを切り口に、洲之内さんが貧乏だったころの京都の思い出が延々と書いてある。宇野さんの話は冒頭で出てくるだけで、そこが洲之内流文章術の所以(ゆえん)でもある。昔、この文章を読んで、なぜ泣きそうになったのか。おそらく住宅ローンの支払いにかなり苦しんでいて、いたずらに感情移入してしまったのだろう。

 私の京都は、だからとりとめがない。二、三年後には私の出歩く先も変ったが、しかし、いまでも人と京都の話をして、お寺や仏像の話になっても、誰でも見ているものを私はなんにも見ていないし、名物の食いものの話が出ても何も食っていないし、相手は呆れてしまうのである。だが、その私の胸の裡(うち)には、到底話題にはしようもない、言葉にはならない、暮らしの侘しさや不安がいっぱい詰まっている。町の中を流れる川の水の音や、百万遍の交叉点(こうさてん)の夕方の遽(あわただ)しさや、親類縁者へのひけ目や、家族のいる土地へ来ながら自分を旅行者と感じるそのうしろめたさや、そういうものが私の京都なのである。                        「京都」より一部抜粋

 ぼくも最初かなり面食らった。どこまで読んでも、その画家や絵の話が出てこずに諦めかけたら、文章の最後で申し訳程度に触れてある。そんな文章もある。読み手を慌てさせるほど自在で自由だ。でも読ませる。しまいにはクセになる。グッとくる一文があり、一文の後ろに洲之内徹が確かにいる。
 そう、「Get up」と「Sex machine」の二語と、あのシャウトだけで聴き惚れさせてしまう、ジェームス・ブラウンの名曲「セックス・マシーン」みたいに。

セックス・マシーン/ベリー・ベ

セックス・マシーン/ベリー・ベ