佐野元春「THE SUNツアー2005」〜「ここにいる力をもっと」

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 大阪に出張したときだ。東京駅を走り出した新幹線の車窓に、青々とした空と朝日をうけて白く光るビル群のコントラストがとても鮮烈だった。その深みのある青にむけて、元春の『太陽』の旋律と歌詞が、一本の太い矢みたいに強く大きく放たれていくような気がした。家を出たときから、『THE SUN』の最後に収められたこの曲をずっと聴いていたんだけれど、ロケーションを変えただけで、歌がそんなに違って聞こえてくるなんて驚きだった。
 5日深夜のフジテレビで放送された「THE SUNツアー」でも、アンコール前の最後の曲として、真っ赤なスーツ姿の元春がこの曲を歌っていた。

夢を見ることは誰にも止められない 止められない

GOD 少しだけ君は臆病になって
GOD 少しだけぼくも臆病になって
あまりにも残酷な「さよなら」がそこにあって

GOD ここにいる力をもっと
GOD ここにいる力をもっと
気まぐれな俺たちが 無事にたどりつけるように

 けっして単純な希望ではない。きちんと苦味をかかえた祈り、といった方が適切だ。82年に生まれた『サムディ』から23年。それだけの歳月の失望や悲しみをきちんと抱えた、それは元春の希望のカタチなんだと思う。
 
「君に従うよ」
 元春が都内の取材でいつも使うらしい、都ホテルの一室のバルコニーで、手すりに肩肘をつくようにお願いするカメラマンに、元春はそう言った。96年9月4日号の『SPA!』巻頭のカラーグラビアの撮影でのことだ。今でも大切に持っている。
 し、従うよって、ただの写真撮影なのに、とぼくは思った。当時の新作『フルーツ』の発売と、元春40歳にひっかけて、ぼくが強引に企画を通した取材だった。取材は友だちと話しているような”元春節”で淡々と進んだだけに、その「従うよ」という言葉が印象にのこった。たぶん、こういう撮影が一番嫌いなんだろうなぁ。
 実はこのとき、元春の大好物だというハニーデュメロンをぼくは持参した。できれば、それに齧(かじ)りついてもらって写真を撮るつもりだったが、やんわりと拒まれたりした(^^;)
 そのときの記事に、こんなふうなくだりがある。

小学校1年生の夏休み明けに、「夏休みの思い出を聞かせてください」と先生に言われて、「ぼくはお父さんと電車に乗ってアフリカに行ってきました」と答えた元春。
「でも、あれは荒唐無稽だった(笑)。だけどその時、先生が”それはよかったね、佐野君”って言ってくれたんだ。うれしかった。自分の行動を誰かが喜んでくれるのが、ボクは小さい頃から大好きだったんだ」

 そんな元春少年は、50歳近くになっても、失望や怒りをそのシャツやズボンのポケットにしっかりたくわえながらも、それでもやっぱり、みんなを喜ばせようと、彼なりの希望を歌い続けている。

 91年の湾岸戦争終了後の夏を、ぼくはニューヨークで過ごした。辞書片手に雑誌を読みまくって、これはと思うライターに編集部を通してアポイントをとり、湾岸戦争アメリカについて話を聞くことを懸命にくり返していた。ブルックリン在住の黒人から英語を習い、ユニオンスクエア近くで営業するグロッサリー(何でも屋)に頻繁に出かけて、初老の韓国人経営者とあれこれと話し込んだりして、ホームシックをいやしていたあの頃。
 イーストリバーぞいに立つ高層コンドミニアムの窓辺で、夜ごと元春の『サムディ』を、友人から借りたカセットテープ・レコーダーで何度も何度も聴いていた。窓は川側にあったので、点在する街灯と黒い闇しかみえなかった。日本語にひどく飢えていたあの頃、小林秀雄の『考えるヒント』と『サムディ』だけがぼくの”命綱”だった。

いつかは誰でも 愛の謎がとけて
一人きりじゃいられなくなる

ステキなことはステキだと
無邪気に笑える心が好きさ
 
Happinnes&Rest
約束してくれた君
だからもう一度 あきらめないで
まごころがつかめる そのときまで
Someday 
この胸に Someday
誓うよ Someday
信じる心いつまでも

 5日のテレビでも、アンコールの2曲を演奏した後、元春はこうしゃべり出した。
この曲を書いたのは20歳そこそこの頃で、10代、20代の「いつかきっと」っていう想いをこめて書きました。(中略)そうするうちに、ぼくも年齢を重ねて、30代には30代なりの「いつかきっと」っていう想い、40代、50代にも「いつかきっと」っていう想いがあるんじゃないかって、最近そう思い始めている。そして何よりもぼくは希望についての歌がうたいたい。こんな時代にそれは甘ったるい考えかな?
 そして耳覚えのあるビートを、ドラムが刻み始めた。