「今の方が良く生きている」と彼は言った

rosa412005-12-06

世界的な免疫学の権威、多田富雄さんの『免疫の意味論』については、以前ここでも書いた。
 その多田さんが脳梗塞に倒れられてからの日々を追ったNHKスペシャル(今月4日夜放送分)のビデオを、ようやく今夜観た。笑ってしまったのは、左手一本で六時間ほど原稿を書いた後、夕食時に、大好きなウィスキーを飲む場面だ。
 奥さんが引き出しをあけて、一番安い国産ウィスキーを取り出して、多田さんの前においた。すると、彼はいやいやをして、うーうーと言葉にならない抗議を繰り返し、バレンタインを勝ち取り、ニコニコしていて、とてもキュートだった。
 脳梗塞の影響で、右半身麻痺にくわえて、顎もうまく動かず、言葉もうまくしゃべれない。だからウィスキーさえ、ゲル状のものと混ぜて口に入れなければいけない。それでも、とても美味しそうに飲みほした。
「なにもかも失って、見えてきたものがあります」      免疫の意味論 
 そんな日常の中で彼はそう綴った。
「今の方が良く生きている」
 きっぱりと彼はキーボードに、そう打ち込んだ。
 ひとつの無駄もないカッコイイ一文だった。一度は自殺を考えた彼は、ベッドの上で、ふいに動いた足の筋肉に、ひとつの希望を見つけた。テレビの撮影途中に、今度は前立腺ガンを発症、さらにリンパ腺への転移が見つかった。神様は時にえげつない。
 人はいつか壊れる。ぼくもいつかえげつない目にあわされる。早いか遅いかの話だ。だから体が動くうちは、走ったり泳いだりする気持ち良さを、握りしめていたい。素敵な小説や映画に心臓がどきどきする、涙腺がジワーッとくるあの感じをにぎりしめていたい。才能がないなりに、誠実な仕事を心がけたい。
 そういえば、夕方、打ち合わせを終えて帰宅後、近くの遊歩道を走った。今日は前回とくらべれば快調だった。途中で、おそらく脳梗塞の後遺症だろう中高年の男性が、犬と一緒にゆっくりと歩いていた。「ファイト」と言いそびれたけれど、今度会ったら勇気を出して、そう声をかけてみよう。