武田徹著『「隔離」という病い』〜「当たり前」が共有されない世の中を生きている諦念と自覚

「隔離」という病い―近代日本の医療空間 (中公文庫)
 近年、メディアの表現力が極端に低下してしまった。いや、その情報を受けとる側が退化したのか。
 人を殺した少年たちはただちに”極悪人”として摘み出され、江戸時代の「市中たらい回しの末の獄門」みたいに、顔写真まで晒される。その理由は、たしか少年たちによる安易な殺人を戒めるためだったと記憶するが(まるで裁判官気取りで)、その効果はまるで期待できない惨状が淡々と続いている。
 少年たちの犯す殺人事件を特殊事情として排除するだけでは何も変らないという洞察力など持たず、ホラー映画よろしく報道することで大衆をただ煽っているだけだ。
 反面、映画やドラマが感動を謳(うた)い上げるのは、死の病と闘うピュアな人、もしくはピュアな恋愛。こっちはピュアすぎて真っ白け。「泣けちゃいました」の大合唱だ。
 どっちも「そりゃ、お疲れさん」というほかない。デジタル機器が普及すると、世の中も「ゼロ」か「イチ」の選択肢でしか、物事を考えれらなくなるのかもしれない。
 武田さんの『「隔離」という病い』という作品には、それらと一線を画している点がいくつかある。ハンセン病患者の隔離政策を通して、日本社会の差別の構造を描き出そうとするこの作品の中で、武田さんはむしろ人間の二面性をこそ見据えている。
 たとえば、その隔離政策の主導者で、医師兼ハンセン病療養所長だった光田(みつだ)健輔。ハンセン病を”伝染病”と喧伝し、その隔離政策を正当化した男だ。
 武田は彼が「救癩の父」(癩病<らいびょう>とはハンセン病の意味)という美談で語られていたという事実と同時に、その療養所で暮らす患者たちのフルネームをほぼ全員覚えていたというエピソ―ドなどで、医師としての情熱的な側面にも光を当てている。あるいは、一般社会と隔絶した場所に患者たちを集めることで、彼らが不当な差別にさらされることのないユートピアを半ば本気で実現しようと考えていたことなど。
 光田の情熱や良心が、いかに伝染病ではないハンセン病患者たちの人権を奪い、社会的に彼らを貶めたのかという経緯が、事実にもとづいて考察されている。それが引いては、「救癩の父」である自らの社会的名声を高めることにつながる、という彼の計算までふくめて。
 しかも、読者にとっても他人事では終わらせない。解説者の香山リカさんも、指摘している次の部分。

 そして問題は、その「病」が光田やその一派が舞台からとっくに去った今もなお癒えていないことだ。冒頭の話題に戻るが、ハンセン病の記事を書いた僕に「こんなかわいそうな人たちがいたんですね」というしかない人たち。彼らの存在は、本人の良心と良識にかかわらず、条件さえ揃えば、第二第三のハンセン病者隔離問題を生み出すだろう無垢さをいまだに日本社会が宿している証だと僕には思える

 「かわいそうに」と本気で誰かに同情した人間が、たとえば、その1時間後にはじつに呆気なく誰かを排除してしまう現実。そういう豹変を見事にやってのける国民性をふくめて、彼は見据えている。その危険性はいまも続いていると。 
 武田さんはさらに、病原性大腸菌「O-157」発生時に取材先で、正常な免疫力さえあれば、そう簡単に発病しないことは知っていたと明らかにしながらも、感染を恐れてしまった自分自身について書き込んでもいる。その弱さから誰も逃げられない。
 生がすでに死を内包しているように、あるいは愛情が嫌悪や嫉妬と表裏一体であるように、昔も今も、誰もが正悪両面を抱えている。
 ただ残念ながら、そんな当たり前のことがもはや共有されづらい世の中で、私たちは生きている。