『ダークサイドからの逃走』〜全体像のない世の中と向き合うこと(2)

rosa412006-04-30

 全体像の見えにくい世の中をどう表現するのか。その観点から感心させられたのが、橋本公さんの<1945−1998>。1945年から1998年まで、世界の地上・地下・大気圏内・海面下で行われた原水爆実験の回数を知っていますか。なんと2053回にも及ぶらしい。
 一ヶ月を1秒に縮めたデジタル時計の進行とともに、世界地図上で、実験が行われた場所を赤や緑などの光で点滅させるとともに音が鳴る。じつにクールで寡黙な作品だが、その作品がもつ「行間」はとてつもなく広くて深く、しかも日本人にとっては苦々しい。
 言葉にすると味も素っ気のないけれど、この15分の作品の前に立つと、その夥しさを放置してきた、あるいは為す術なく黙認してきた私たちのいい加減さや、無責任ぶりを突きつけられているような気分に駆られる。
 しかも、日本はそれが自国に投下された唯一の被爆国だという現実をも突きつけられる。太平洋上での米国の最初の実験の次が、広島であり長崎なのだ。その無機的な音と光が、日本上で鳴り点滅する。まるで始業を知らせるチャイムみたいに。さらに1980年代のその音と光のけたたましさは、耳を覆いたくなるほどで、では、その頃に私たちの国では何が起こっていたかというと、バブル景気に沸き返っていたことは記憶に新しい。それが世界最初の、そして唯一の被爆国の誇るべき民度なのだ。
 2053回の現実など、学校でも習わない。教師も教えない。大人だって知らない。原爆を落とした国のポチ犬ごとく振舞う変人リ―ダ―は、英語も話せないアメリカのドラ息子にはとても従順な男妾(めかけ)で、韓国や中国には一転偉そうなのだ。
 政治とは高度な妥協の技術だとぼくは思うのだけれど、そんなものまるでない。一方的に言いっ放しのひきこもり状態。そんなポチ犬に圧倒的多数を与えて大勝させる人たちの国でもある。景気と年金さえなんとかなれば、原水獏実験が何回あろうと、ゼンゼン問題ありませ〜ん。バブル時代からの、あるいはそれ以前からの、じつに堂々たる一貫性だ。世界に大いに誇るべきだな、唯一の被爆国&武力の放棄をうたった平和憲法を持つ国として。
 2053回という実もフタもない現実と数字を、クールに要約し凝縮する。それによって、じつに醜悪な現実にシニカルな全体像を与えることに、橋本さんは見事に成功している。前日書いた、スゥ・ド−ホーさんとはまるで違うアプローチながら、ポップであると同時に、ヒヤッとしたブラックユーモアの切れ味がカッコイイ。こういうことを、文章でやれないだろうか。