利休はなぜ四畳半から二畳を求めたのか

rosa412006-10-27

 ひさびさのワタリウム美術館「庭園倶楽部」。前回は福岡取材で欠席した。今回のテ―マは「茶の空間」。
 お茶は最初、「茶寄合い」という愛好者の集いだったらしい。それが「闘茶(とうちゃ。大人数で茶の産地と銘柄を当てる利き茶クイズ)から、千利休の登場で、茶室での一期一会形式の少人数で対峙するものへ変化。さらに明治以降は、大人数への骨董好きたちの茶道具自慢大会へと変容(堕落?)していったらしい。利休の精神性へ過度な傾倒が、反動としてマニアの台頭を招いたとすれば、いかにもこの国らしい節操の無さだ。
 しかし、利休が四畳半の茶室を、60歳過ぎた頃、さらに二畳へと極限化したのか。疑問がわいた。講師の方に質問したのだが、「直心(じきしん)の交わり」を重視したからでしょうという答えだった。
 物足りない。だってある人は、その極限化を「是ハ貴人カ名人カ、サテハ一物モ不持侘数寄カ、此外平人ニハ無用也(二畳だなんて貴人か名人か、あるいはよほどの侘び好きでもない限り、普通の人には必要ないだろう」とまで言っているのだ。当時の暗い茶室で四畳半なら、それだけでじゅうぶんに息苦しいだろう。さらに二畳に縮めて他者と対峙せざるをえないと考えた、利休の心境の変化とは何だったのか。今度調べてみたい。