石内都『mother's』(東京写真美術館)―個別から普遍への視線

rosa412006-11-03

 以前、洗面所で髭を電気剃刀でそっているとき、いったい死ぬまでにオレはどれだけの髭を剃るんだろうかと思った。その他にも、生涯に美容室で切る髪、口に入れる食物の量、排泄する尿やウンコ、流す涙や垂らす鼻水などなど。さらには生涯に喋った言葉、手紙や日記に書いた言葉。心に浮かんだ喜怒哀楽の感情なども加えて、それらあらゆるものをビジュアル化できたとしたら、たった一人の人生でも東京ドーム10杯分は裕にこえるだろう。
 そのとき初めて、人間という存在の過剰さを目の当たりにできる。そう考えると、人間の「総量」を見たいような見たくないような微妙な気持ちになっていった。母の遺品や晩年の肉体を写真に収めた石内さんの作品を観ながら、ぼくはそんなことをふいに思い出した。
 たとえば内側がひび割れてボロボロになった、色あせた水色の昔風ハイヒール。所々にほつれ糸が見つかるシュミーズの下着、使い挿しの真っ赤は口紅などが、それを使っていた亡き母親の感情や情景をも携えているようで、どこか生なましい。それらの残存する品物たちの向こう側に、母親のさまざまな情景を垣間見てしまう。本人の不在とは裏腹に、それらの品物が抱えるものらはあまりに過剰だ。
 遺品という個別なものを掘り下げることで、過剰なエネルギー体としての人間という普遍的な視線にたどりつく。明日5日(日)が展示最終日。