倉敷美観地区にて(2) 

rosa412007-04-10

 あまりくわしくは書けないが、ある認知症のグル―プホームに行ってきた。認知症には若年性のものがあるが、大抵は65歳以降に発症し、痴呆症状が進み日常生活が送れなくなる病気だ。グル―プホームとは、9人以下の認知症の方々が、家庭のような雰囲気で暮らす施設のこと。
 そこに初日はぼくが何度か話しかけても、まるで話してもらえない90歳前後の女性がいた。彼女は誰にともなく話したり、その言葉がときにメロディーになるような女性だった。そんな自分の世界をもっていた。そのくせ、そこの職員とは時折、唐突に会話が成立するのだ。
 ただ、念のために書いておくが、認知症の人にはきちんと会話が成立する人もいるし、それが難しい人もいる。会話が難しい人でも、食事という行為はできる人もいる。言葉は介在しないが、相手の動作に応じて口を開けないと食事はできないのだから、それも「会話」の一種だ。誤解や偏見は慎んでもらいたい。
 初日、ぼくが東京から来たと職員さんが説明してくれると、彼女は「東京から稼ぎに来はったん?」と誰にともなく聞き返して、無意識に笑いをとっていた。そこで、ぼくが彼女と話そうとしたが無反応。
 翌日もふいにぼくを見て、「この人は昨日からここにいるわね」と出し抜けに言われた。チャンスと思った僕はふたたび、「そうです、○○さんと話したいと思っているんですよ」などと話しかけたが、やはり無言に戻った。
 最後の3日目のことだ。ひと通りの取材を終えて、駅へ向かうタクシーを呼んでもらってから、独り言を口にしている彼女の隣に静かに腰をおろした。
「あたしは貧乏人やから、何もわからんのよぉ」という彼女に、「でも、こんなゆったりした場所で、落ち着いて暮らせているんですから、○○さんは幸せじゃないですか」と伝えると、「そうねぇ、ホントよねぇ」と初めて言葉を返してくれた。ぼくは嬉しくなって、「ああ、最後の最後に会話が成立したぁ。○○さん、ありがとうございます」というと、彼女は「ええ、ありがとう」という言葉を笑顔とともに返してくれた。愛らしい微笑みだった。
 まったく他愛のない話だ。
 失われてしまうものと、生まれてくるものがある―認知症という病気においても、脳の神経にはその二つがあると最近言われるようになった。ただ、それも僕やあなたと同じではないか。