黒田絵美子訳「レイモンド・カーヴァー詩集 水の出会うところ」(論創社)〜心の奥がしんとする

「・・・あと20年は走りたいと思ってます」
 あるランナー友達にメールを書きながら、自分で書いた一節にびっくりした。


 人生を逆算している自分を発見したせいだ。書いた瞬間は、それぐらい好きになっているという表現のつもりだった。ところが、いざ書いてみると、命が終わる匂いをかぎながら、20年という時間を捻(ひね)り出している自分がいた。


 ぼくよりもっと若い頃から、死を見すえた詩を書き続けていた作家がいる。村上春樹訳で知られる短編小説の名手、レイモンド・カーヴァー。彼の詩集「水の出会うところ」に、「鍵を持って出るのを忘れ、中に入ろうとする」という3ページほどの作品がある。
 何も考えずに外に出てドアを閉めると、自分の家の中に入れなくなり、鍵を預けている人も留守。そこで1、2階の窓が開かないかを調べながら、さっきまで自分がそこにいた家の中を、外からながめるという設定。その後半部分を少し長いが引用する。

雨の降る中、はしごを登ってひさしへ上がり、
手すりをのり越えて二階のドアを試してみた。
やはり、鍵がかかっていた。
だが、ここでもわたしは中の机、新聞、それから椅子などを見た。
この窓は机の反対にあって、いつも机に向かっている時に見上げ
る窓だ。
ここは下の部屋と違うな、と思った。
まったく別世界だ。
こうやって外側からそっとのぞくと、妙なかんじだ。
中にいるのに中にいないようなかんじだ。
このかんじを口で表すことはできないと思う。
窓ガラスに顔をつけ、この部屋の中で机に向かっている自分の姿を
想像してみる。
時々、手を休め、顔を上げる。
どこかほかの場所のことや、昔のことを思いながら、
そして、そのころ愛した人たちのことを。
(後略)


 この後、わたしは世界一幸せな男だと思うと同時に、悲しみを感じ、かつて自分が傷つけた人たちのことを思い返して恥ずかしさに襲われ、窓ガラスを破って、その家の中へ入っていく。
 この作品には、「死」という文字はひとつも使われていない。それでも、主人公が家の中、つまり生活から締め出されたことで、自分のいない生活の在り様をながめる幽霊のような視点をつかんでいる。同時にそれは、いつか主人公の「わたし」がいなくなる生活の現実でもある。


 近づく死に侵食されているという点で、冒頭の「あと20年は走りたい」わたしと、どこか似ている。死から逆算するからこそ、今がいとおしくなる。中年生活者として、以前とくらべれば、1日の時間の使い方に卒がなくなってきたという自負も、ささやかにある。終わりが近づくほど輝くのは、線香花火だけではない。


 とても空漠たる感じが、この詩集全体にしずかにみなぎっている。
 本の腰巻にある、「ミニマリストのミニマムな遺言状」というコピーもうなずける。ページをめくる度に、心の奥がしんとしてくる。うまく寝つけない深夜、酒でもちびちびやりながら読むにはオススメ。翌朝はきっと気合いが入るはずだ。