うつろうことば〜辺見庸著『青い花』

 昔、九段会館で辺見さんの講演を聴いたことがある。そのとき青空の下で桜の蕾(つぼみ)を何枚かデジカメで撮った記憶もある。たしかバッハの無伴奏チェロの演奏者との共演だった。
 低音が響く、あの少ししゃがれた声と、淡々とした語り口。その言葉は、ひとつの事象を入口に、ときに詩的に、ときに論理的にと揺れながら、その事象と地続きの鼻が曲がりそうな臭気を放つただれた現実を、腕利きの狙撃手のように次々に撃ち抜いていった。辺見さんの流麗な文章に身体ごと取り込まれていくような時間だった。


「わたしはあるいている」を通奏低音のように反復しながら展開する今回の小説は、東京ディズニーランドのアトラクションを思わせる。ひとつの乗り物で巡回しながらある物語を体感する、あれだ。点滅する光のように、震災や戦災、狂う世界やヒトやメディアが現れては消え、消えてはまた現れる。起承転結を追う作品ではない。


 とくに、うつろうことば(衰える言葉)とうつろうにんげん(希薄化するヒト)の描写が目を引く。

この期におよんで、のような、とつい言ってしまうじぶんに引っかかる。安易すぎるので気が差す。のような、とか、のようだ なんて、かたりを得意がりたいだけの、子どもじみたごまかしだ。いま、じぶんを衒(てら)ったとて、もうどうなるものでもない。

 

 あるいは、ぺらぺらに漂白されるヒトへの眼差し。

ひとという実体なんかどうでもよいのである。申告手続きが適切か、登録IDが有効か、アカウントナンバー、パスワードが正しいかどうか、それだけが問題だ。わたしはあるいている。と、おもいつつずっとあるいている。一個のひとそのものよりも一枚のICチップつきIDカードが重要である。


 それら二つは呼応している。ことばがうつろうことは、ひとがうつろうことで、ひいては、よのなかがうつろうことだから。辺見さんのことばは、ときに言いよどみ、どもり、なまり、ズレてよじれて、とちくるい、ときに脱臼(だっきゅう)までしてみせる。まっとうな感受性ゆえに狂い叫ばずにはいられないことばの正気を目の当たりにするとき、正気めいた言葉を少しも臆することなくつづっていられる自分の腐った愚鈍さにたどりつく。
 ちなみに表題の「青い花」は、愚劣な世界のシンボル。

青い花

青い花