安室奈美恵評に見る、韓国の「反日」と「克日」の軌跡(1)

 デジタル朝鮮日報を見ていたら、今日の午前中は日韓首脳会談と、オリンピック代表の日韓戦などの記事にまじって、安室奈美恵の来韓公演のステージ評が出ていた。http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/05/20/20040520000056.html
 知人の音楽評論家にうながされて、渋々公演を見に行ったら、いやぁ〜安室はスゴかったよ、という内容だ。文章はすごく細やかで、かつチョット恥ずかしい(^^;)。その文章の最後の部分を少し引用したい。筆者は公演の感動をふまえて、こう締めくくっている。

 今後、韓国の音楽界は日本の曲を盗作するといった汚名や陰の部分から完全に脱し、最善と死力を尽くして、観客に対する基本的な礼儀を完全に回復しなければならない。これからは、反日感情ではなく克日の努力と行動が今以上に必要とされるのではなかろうか?

 何をまぁ、そんなに力んでいるんだろう、この筆者は?この文章を読んで、そう思う人も多いかもしれない。
 だが僕には、「反日(パニル)」と「克日(クギル)」のそろい踏みが、とても懐かしかった。約20年前、韓国ソウル市で、同世代の韓国人学生らと一年間下宿生活を送った経験からだ。当時も、その二つの言葉を、韓国のマスメディアでよく見かけた。
反日感情」は日本の人たちにも見慣れた言葉だろうが、「克日」はたぶん知らないはずだ。「日本的なるものを克服する」という意味の造語だ。
 二つの世界大戦の間で、韓国は36年間の日本による占領時代を経験している。公用語は日本語とされ、みんなが日本名を名乗るように強制された。そして歌謡、映画、演劇では日本文化以外の表現活動が禁じられた。そのときの後遺症が、つい最近まで日本の映画や歌謡曲の国内開放を韓国政府に拒ませてきた。それがいったい、どういうことかは、日本人が突然、すべて英語で話すよう強制され、英語名で名乗れ、といわれる状況を想像してもらいたい。
 戦後、なんでもかんでも「日本憎し」だった頃の韓国は、「反日」一色だった。だが自分たちより先に先進国入りを果たした隣国を目の敵にばかりしててもダメだ。日本の良いところは素直に学び、早く日本に追いつき、追い越そうという機運があらわれ、それが「克日」という造語で表現されるようになった。「反日」と「克日」の間には、そういう軌跡がある。 
 サッカー日韓W杯大会をへて、韓国は日本文化の開放政策へと舵を切った。そして安室の公演が大成功に終わる時代になった。今や、日本のオバサンたちが大挙して、『冬ソナ』ロケ地をめぐるツアーに押し寄せるほどだ。
 それにもかかわらず、今も「克日」という言葉が、韓国のメディアには生き残っていた。新聞のWEBサイトの記事に使われているということは、その言葉は今も、誰にでもわかる普通名詞なんだろう。
 安室を冷静に評価するゆとりが生まれてもなお、いや生まれたからこそなお、「克日」が使われている。もちろん、そこには20年前とは違う一定の自信や、日本文化の鎖国状態を悪用し、日本の作品を平然と盗用してビジネスしていた頃の残滓への羞恥心も、いくらかは含まれている。
 生真面目な筆者が、「克日」という言葉をつづりながら噛みしめている苦味に、ほんの少し思いをめぐらせてほしい。