世論とは何か〜福田ますみ著『されど我、処刑を望まず〜死刑廃止を訴える被害者の兄』

rosa412004-11-11

 保険金目当てで実弟を殺された兄が、最初は憎み、極刑をのぞんだ加害者との交流の中で、次第に気持ちを変化させていく様子が、丹念に書かれている一冊。もっとも印象的なのは、二審で死刑が確定した加害者の減刑をもとめる街頭での署名活動に、兄が立ったときの出来事だ。
 ある中年男が「死刑確定者の減刑だなんて、おまえら被害者の家族の気持ちを考えたことがあるのか!」と憤った。そこで彼がその被害者の兄であることを告げると、男はとたんに目をそらして去っていったという。
 そのとき、兄はこう考える。
 裁判所が「被害者感情を考慮して」と、あるいは世間が「被害者の気持ちを考えると許せない」というとき、いったい、どれほどの人が、被害者遺族の悲しみや悩みを思いやってくれているのだろうかと。むしろ、「被害者の感情」という言葉を持ち出す人間にかぎって、何も考えていないのではないか。ただ興味本位に事件をながめて、自分の単純なストレスや腹立ちのうっぷんを晴らしたいためだけに「悪いやつは殺してしまえ」と息巻いているだけの人間も多い。彼らはただの野次馬だと。
世論とは何か。彼がここで指摘している視点は興味深い。時にテレビや新聞が、それぞれの情報の受け手たちに媚びるように利用する「世論」。一見、思慮深くてバランス感覚があるかのようにもひびくその語感と、単純なストレスや腹立ちのうっぷん晴らしとの境界はかぎりなく曖昧だ。それは先のイラク戦争での三人の日本人人質バッシングだけを見ても明らかだろう。 

 兄の話にもどせば、本当に世間が事件被害者のことを考えているなら、なぜ最近まで日本には被害者救済のための制度や組織がまるでなかったのか。要するに、被害者感情とは死刑制度を正当化するためのおためごかしではなかったのかと兄は語っている。当事者ゆえのこの視点は説得力をもつ。さらに兄はこうも考える。
「殺されたから殺す。第三者なら大方が、この単純な因果応報の理屈に賛成するでしょう。ところが、被害者の身内である私たちにとっては、まさにここのところが納得いかないんですよ。、私たち家族にとってはどう考えても、非道なことをした渡辺君より弟の命の方が尊い。その弟が殺されたから、加害者である渡辺君の命を奪ってはい、おしまいというんじゃあ、なんだか、あんまり安易で、胃のうちの等価交換にしかすぎないと思うんですよ。これでは弟が加害者と同じ勝ちしかないことになる。それでは我慢できないんですよ」
 だから加害者には死刑ではなく、刑務所の中で死ぬまでその罪をつぐなってもらいたい、と。こういう視点は、確かに第三者からは出てきにくい。

 著者の福田さんが、真摯にこの兄と向き合い、取材する中で悩み、考えていった経緯が、きちんと文章に反映されている。それは兄との対話から、死刑制度の起源や海外事情などへと展開していく流れをみれば明らかだ。最初は紋切り型の文章に少し鼻じらむこともあったが、中盤からは一気に読みきった。
 書き手の対象にきちんと迫りたいという真摯な情熱と取材姿勢は、やはり行間や文面ににじみ出る。そのことを学ばせてもらった一冊だ。98年刊行の図書館蔵書。

されど我、処刑を望まず―死刑廃止を訴える被害者の兄

●すごい偶然だが、福田さんの本では仮名で登場した兄が、実名で書いた本が最近出版されていた。

弟を殺した彼と、僕。

弟を殺した彼と、僕。