生きざまと情熱を映す82歳の顔

rosa412005-01-28

 お世辞にも美人とはいえない。だが、きれいに輝いている顔というのがある。そういう顔の人に会うと、なんだかとても嬉しくなる。ぼく自身が励まされるからだ。
 82歳の彼女は一人で凛として生きている人だ。自分の信じた道をまっすぐに歩き、仕事の情熱を拡散させたくないからと、実家の長男として、子どもをのぞむご主人とも別れた。ご主人も、彼女が発散する大量のエネルギーは家庭だけに閉じ込めておくべきではないと、いさぎよく応じた。
「だけど女の一人暮らしでも、新聞だけは毎日かかさず読みなさい」とだけ伝えた。
 その日以来、新聞を隅から隅まで読むくせがついたのよと、彼女はほがらかに言う。どこか少女っぽい笑顔で。さすがに70歳をこえて、新聞を読むのにも時間がかかる。それでも3時間かけて、しっかりと読んでいる。元夫のエールを彼女なりにしっかりと受けとめて、およそ60年近くがすぎたことになる。
 米屋の長男だったご主人は、別れてから再婚しても、彼女にお米を送り続けた。二人目の奥さんが露骨に嫌がるまで、それを止めなかったらしい。お互い、けっして嫌いで別れたわけではなかった。
 彼女はあふれんばかりの情熱のありったけを、自分が信じる道だけに注ぎたかったし、ご主人は長男として跡継ぎを育てなければなかった。それだけだ。
「自分の子だけを育てるなんて、私にはできっこないって思ってたのよ。結果的には、もっと多くの赤ちゃんとお母さんを支援できることになったから、ええ悔いはないわね」
 昭和20、30年の日本では「借り腹」という言葉があった。嫁といえば、家系を継ぐ子どもを産むための道具でしかない。それが常識だった時代だ。百姓の家に生まれれば、それ以外に牛馬みたいに田畑で働くことを求められた。そして多くの女性が、牛や馬みたいに毎年妊娠させられた。「10人産めば、豆腐一丁」が、特別に嫁に与えらた。
 なぜなら、彼女が産んだ赤ちゃんには配給ミルクや魚や味噌汁が与えられるのに、彼女の夕食は梅干とご飯だけだったから。たまに魚の尻尾とか。「秋なすは嫁に食わすな」はけっしてギャグではなく、差別的常識だった。
 彼女はそんな冷遇される女性を救おうと、各地の村をめぐり歩いた。彼女自身、3人の母親を失っている。それが大きなモチベーションだった。村々で母親学級や、姑学級を開き、出産前の衛生知識や、出産後の栄養摂取の知識を懸命に広めた。
「それで少しずつ、母親も家族と同じ食事をとれるようになったんです。今考えたら、まるで地球の端っこの途上国みたいでしょう」
 たった60年ほど前の、私とあなたの国の村々はそんなレベルだった。
 彼女は今、82年の個人史を書いているという。そして実家の墓の近くに、自分ひとりだけの墓を建てるつもりでもいる。墓標には「愛育」とだけ刻もうと考えている。それが女一人で情熱を燃やして求め続けた運動の名称だから。そういって彼女はふたたび、両頬をほころばせた。
 縁側の大きなガラス戸に映る、暮れはじめた日差しが、身長150㎝にも満たない小柄な彼女の顔を静かに照らしていた。声をあげて笑うと少し赤みがさす両頬は、そのせいでキラキラと輝いてみえた。