三島由紀夫『春の雪』〜遺作にただよう爛熟の気配

rosa412005-10-30

 読みすすめる度に溜息がもれる。そういう小説家ってそういない。すでに高校や大学でも、いくつかの三島作品を読んで、その天才ぶりには感嘆させられていた。が、自分がかりそめにも文章を書いて生活するようになって、改めて読み返してみると、より惚れぼれさせられる一人だ。とにかく溜息がとまらない。
 今度の映画の日に、行定勲監督の『春の雪』を夫婦で観にいくつもりで、ひさびさの三島作品として、文庫本『春の雪』をはじめて読んでいる。自由な恋愛など許されるはずもなかった、大正時代の貴族社会の悲恋物語。割腹自決の前に、この原稿を仕上げたといわれる三島の遺作『豊穣の海』四部作の第一作目だ。
 竹内結子が演じる主人公・聡子が、幼馴染みの妻夫木聡演じる清顕に、ある朝、「二人で雪を観にいきたいから、学校を休んでほしい」と連絡をよこす。たとえば、清顕が突然の誘いに戸惑いながらも、人力車で聡子の家に迎えに行き、雪降る中、人力車内の暗がりで寄り添いながら、どこという宛てもなくただ車を走らせている以下の場面。まだ二人は手も触れ合っていない。

 黒い小さな四角い闇の動揺は、彼の考えをあちこちへ飛び散らせ、聡子から目をそむけていようにも、明り窓の小さな黄ばんだセルロイドを閉める雪のほかには、目の向けどころがなかった。彼はとうとう手を膝掛けの下へ入れた。そこでは、温かい巣の中で待っていた狡さをこめて、聡子の手が待っていた。
 一つの雪片がとびこんで清顕の眉に宿った。聡子がそれを認めて「あら」と言ったとき、聡子へ思わず顔を向けた清顕は、自分の瞼に伝わる冷たさに気づいた。聡子が急に目を閉じた。清顕はその目を閉じた顔に直面した。京紅の唇だけが暗い照りを示して、顔は、丁度爪先で弾いた花が揺れるように、輪郭を乱して揺れていた。
 清顕の胸ははげしい動悸を打った。制服の高い襟の、首をしめつけているカラーの束縛をありありと感じた。聡子のその静かな、目を閉じた白い顔ほど、難解なものはなかった。
 膝掛けの下で握っていた聡子の指に、こころもち、かすかな力が加わった。それを合図と感じたら、又清顕は傷つけられたにちがいないが、その軽い力に誘われて、清顕は自然に唇を、聡子の唇の上へ載せることができた。

 あ〜あ〜、この、たった13行ほどを読むだけで、ぼくは身体がタコみたいにぐにゃんぐにゃんになり、思わず溜息が「ほぉ〜」ともれてしまう。飲み口が軽い吟醸酒のように、それとは知れずに、気がつくと心地よく酔っ払っている。
 鮮やかな情景描写と、それに絡んで移ろう心理の変化、そこに重ねられる手や瞼、首まわりの触感、距離的な近さに反して遠ざかる心の距離感、言葉にならず揺れる想い。読む者に、さまざまな感覚を総動員させるように仕向ける文章の、あまりに華麗で濃密な空間。その文章に、ぼくの好きな竹内の顔をよりクローズアップして思い描きながら、読み進めてみると、また新たな小説の読み方ができる。というか、より感情移入しやすい。
 ただ、毀誉褒貶の多い遺作という先入観があるせいかもしれないけれど、見事な文章ながら、そこに爛熟(熟しすぎること。じゅうぶんに発達しすぎて、おとろえが見えはじめた状態のこと)の気配を感じる。ひらたくいうと、文章がくどい。まっ、それについては、また今度。豊饒の海 第一巻 春の雪 (新潮文庫)