本当に必要な情報が流通しない世の中

 昨日、NHKでガン患者さんたちが出演した2時間番組を観た。その番組を観るまでガンにかかった場合、障害年金の申請ができることを僕は知らなかった。自らガン体験をもつ、タレントの小堺一機さんの次の言葉も、胸に残った。
「ガンは少し高い場所に置かれたメロンみたいなもので、みんな、眺めているだけで、実際に手に取ろうとしない。でも本当は自分で手にとって触ったり、その匂いをかいだりして、本当はどんなものなのかを、自分で知っておいた方がいいもんだ」
 ガンに関するテレビ番組も、本もかなりの数にのぼるだろうが、ぼくにとってもたしかに、高いところに置かれたメロンだった。親類が一人亡くなってはいるけれど。NHKは同じ時間枠で、先日はうつ病を取り上げていたが、いいアプローチだと思う。命に直結する情報だからこそ、もっと赤裸々に語られ、より多くの人たちに共有されるべき情報だ。
 物語でガンは語られても、実際に自分がかかるまでは、その早期発見のコツや治療法についても無知。まさか自分は・・・と思っていて、ある日ふいにガンと知らされて、慌てふためく。
 周りの人間も「可愛そうに」とか「なんて言葉をかけていいかどうかわからない」と慌てる。急にぎこちなくなって遠ざける。何の根拠もなく、自分はガンになんてならないと思っているからだ。白血病で誰かが死ぬ映画に感動して泣く人は多いようだが、じゃあ、実際に自分が白血病になったら、どういう治療法があるかまでは調べないし、知らない。実際に、白血病になってみてから慌てふためく。
 こう書くと、自分の命に直結する情報、それは病気だけでなく、住まいの安全性や、食べ物に混入する農薬や添加物の種類や量などにまるで無知な自分さえも、芋づる式にどんどん引っ張り出てくる。カッチョ悪い、悪すぎる。「この商品を買え」情報や「このドラマは観ろ」情報は溢れ返っているのに。いや、だからこそ高度に文明化された社会だと言うべきか。
 それはスポンサーの有無だけではない。まず、私たちが求めていないのだ、求めていないくせに、いざ問題に直面したら慌てふためく。