般若心経というテキストの妙味〜エッシャーの騙し絵のごとく

 13日の日誌への蘭×さんのコメントから、話はググッと深まっていく。
 まず国語辞典を引くと、「あきらめる」には「諦める」と「明らめる」がある。ぼくは「明らめる」の存在を知らなかった。前者は「思い切る」「断念する」の意味だが、「明らめる」は「物事を明らかにする」とか「深く研究する」という意味だ。
 次に、「生をあきらめ死をあきらめる」でネット検索すると、「般若心経―色即是空って何?」というブログがヒットした。ここの賢者の手紙(1)を読むと、興味深い記述がある。
 要約すると、般若心経は元々サンスクリット語であること。私たちが目にするのは、それを中国語に翻訳されたものから、さらに日本語に翻訳されたものであること。その口語訳がじつにわかりにくく、意味不明な日本語訳のものが多いこと。
 そのブログによると、曹洞宗で読む「修證義」の第一章総序では「生を明らめ、死を明らむるは佛家の一大事の因縁なり。生死の中に佛あれば生死なし、但生死即ち涅槃と心得て、生死として厭うべきも、涅槃として欣うべきもなし」とあるようです(未確認)。
 ただ、このブログでも指摘していますが、般若心経の有名な解説書にも「明らめる」と「諦める」の二つの表記があるらしい。
 ただ、同じブログの「般若心経の論理的読解」読むと、不生不滅という言葉とともに、死と生がひと続きのものとして理解できるとも書かれています。そうなると、「諦める」より、「明らめる」の方が生死もしくは仏法の一大事としては適切かなと思われます。
 ただ、この一連の話を読むと、M.C.エッシャーの騙し絵の世界が、ぼくには般若心経ちっくなものに思えてきます。もしや、彼も読んでた?