尊重と共感の難しさ〜友人の大雨被害に直面して

 5月発売の拙著に、尊重と共感というキーワードを託した。
 世の中に充満する、自分(たち)さえ良ければそれでいいという気分と、それゆえに深い孤立感にさいなまれてもいる気分の股裂き状態を、ぼくなりに感じていたからだ。個人的な好き嫌いを超えて、他者とつながろうと奮闘する女性たちの姿を通して、他者に対する尊重と共感の仕方を伝えたかった。
 ところが、先日、長野で果樹園を経営している友人から手紙が届き、ぼくの「尊重と共感」は、あっさりと割れ鍋に綴じ蓋(ぶた)みたいになってしまう。
 一連の大雨で、千曲川が氾濫し、彼の桃畑全部が水没してしまい、出荷間近だった桃が送れなくなったという文章には、水没した畑の写真まで添えられていた。それまでテレビで大雨被害の様子をぼんやりと観ていたぼくは、友人の気持ちを想うと途端に言葉を失った。
 彼にメールでどんな言葉を送ればいいのか。
 考えれば考えるほど思いつかない。言葉が商売道具のはずなのに、情けないほど役に立たない。しばらくして、先の「尊重と共感」という言葉が改めて思い出された。その友人の現実を尊重、あるいは共感するにしても、適当な言葉がなかなか見つけられない。大声で叫びだしたくなるような無力感だ。
 お見舞い申し上げます、ぼくはそう書き出してみた。
 だが後が続かない。その場にいないくせに、その被害の本当の意味さえわからないくせに、「がんばって」なんて、とても書けない。購入者に正確な事実を伝えるために、水没した桃畑を撮影、印刷した友人の気持ちを想うとやりきれない。ぼくの言葉はヘロヘロでヘトヘトだった。
「こういうときに、自分の言葉の舌ったらずさを痛感させられます。何をどう言えばいいのか・・・」
 文末に正直にそう書いて返信した。惨敗。言葉は嘘をつく。さらにその嘘によって、ぼくは復讐された。言葉がぼくを裏切るのと、ぼくが言葉を裏切るのと、どっちがよりひどいのかさえ、わからない。
 とりあえず、ぶどうとなし、リンゴのセットを今年は2セット注文するつもりです。興味がある人は丸太小屋農園のHPをご覧ください。