決断できない「いい子」たちが招いた結末〜冨山和彦・産業再生機構代表取締役専務談

「東大・大蔵省と、ただ勉強ができるというだけで、たいした挫折経験もなく偉くなった人たちに、血を出すような非情な決断はできないわけです。イージーゴーイングの人たちは、そこが駄目ですね。それが「失われた10年」と呼ばれる、この国の金融行政無策の実態だと思います」
 冨山さんの話は、冒頭からそんな歯に衣着せぬ物言いで始まった。知人からのメールで、このセミナ―を知り、参加させてもらった。以前から冨山さんの話を直接聴いてみたいと思っていたから。
「地方の2代目、3代目経営者も、みんないい人なんです。だから取引先を切るといった決断ができない。地縁、血縁の夥しいしがらみがあって、その相克の中で合理的判断ができないんです。ただただ決断を先延ばしにして、事態を悪化させてしまう。大半がその構図です。その反対に、大胆な経営改善を行って成功した人たちは、いろんなしがらみを叩き切っている分、地元ではじつに評判が悪い。だから週末ごとに東京に出て来てしまう」
 と軽く笑いをとる。サ―ビス精神満点の話しっぷりだ。
 いきなり話は飛躍するが、これは、子どものひきこもりが5年、10年と長期化する親も同じようなことが言える気がする。地方自治体勤務者が多く、見るからに小心で真面目そうな人たち。いわゆる「勉強のできる、いい子」がそのまま大人になったような人たちで、子どもに嫌われるような非情な対応をとれない。子どものことを思って、と言い訳するが、じつは子どもを傷つけることで、何よりも自分が傷つきたくないというのが本音。
 たとえば、10年近くひきこもっている息子に、「おまえはどうしたいんだ?」なんて聞いて、最後の最後に子どもの自主性に決断を委ねてしまう。子どもをなんとか家から出したいと、働きかけをNPOに依頼してきたのはその父親自身なのにだ。
 つまり、この国の問題の根っこはとても似ている。失敗を極端に恐れて、リスクをとれない。自己愛が強すぎて、自分が傷つきたくないゆえに、いたずらに決断を先延ばしにする。それは「勉強のできる、いい子」を量産することが、家庭でも教室でも盲目的に良しとされてきた社会システムの問題でもある。(つづく)