廣末哲万監督『14歳』〜精緻な顕微鏡で映し出される14歳たちの鬱屈 

 想像力を痛いほど刺激してくれる映画に出会えた幸福を、まずは喜びたい。映画『14歳』のもつ静謐さが、登場人物たちの短い言葉や暴力的な場面を禍々(まがまが)しく研ぎ澄ましている。実際にぼくは上映中に2度ほど、顔をしかめ身体をのけぞらせた。 
 日々鬱屈をつのらせる14歳たちに、かつて14歳で他人を傷つけた、あるいは他人に傷つけられた大人たちを対峙させるという脚本がいい。多くの大人たちは、近年の凶悪な少年事件を「心の闇」というシール1枚を貼り付けて封印するか、ホラー映画まがいのお話に仕立てて放り出すことしかしらない。
 この映画の想像力はそのシールを剥がし、若さゆえに残酷な鬱屈に精緻な顕微鏡のように焦点を合わせる。だから観てて痛く、僕の14、15歳当時の鬱屈感をさえ思いおこさせる。それがこの作品の静謐なダイナミズムだ。編集の粗さはあるけれど、それを補って余りある輝きを感じる。
 他者の痛みは、自らの痛みの記憶を通して近づこうとするしかない。それゆえに映画に登場する大人たちは子どもを見ているようで、まるで何も見ていない。彼ら大人は「ぼく」や「あなた」でもある。近年の少年事件の向こう側にも、そういう大人たちがたくさんいるのだろう。
 かと言って、この映画はいたずらに14歳を理解したフリはしない。「金八先生」みたいな傲慢さは退け、「大人なんかに頼らずに生きろ!」という場所に踏みとどまる。その距離感に、ぼくはとても誠実なものを感じる。「わからない」とわかった上で他者と向き合う想像力と作法を、世の中はもっとも失っているからだ。
 一方、引きこもりを題材に2冊の本を書いた自分はどうだったのか―映画館を出てからそのことを考えていたら、自分の共感力と距離感の稚拙さばかりが露になり、渋谷東急本店前の雑踏でしゃがみ込みそうになった。