自己責任ということ〜400mハードラー為末大という鏡


 自己責任という言葉は、この国では否定的な文脈で使われやすい。
「それは自己責任だろっ!」とか「自己責任でやりなさい」とか。その責任を糾弾したり、もう私は知らないから勝手にやってくれ、と放り出す側がよく使う。


 それは、「責任」という言葉の本当の意味を、たいていの人が知らないからだ。NHK『スポーツ大陸』というノンフィクション番組で、為末大の軌跡を追う番組を観終えて、そのことに気づいた。為末は、高校卒業以来、コーチをつけず、自分1人で何事もこなしてきた。大学進学時にも、そのスタイルを認めてくれるところを探していたという。知らなかった。


 一見、しんどい生き方だ。誰の責任にもできない。失敗は100%自分のせいであり、そこから逃げられない。だが、彼の考え方は違う。「練習メニューをどう組み合わせるかって、アスリートとしては一番面白い部分じゃないですか。それは自分ひとりでやりたいでしょう」。
 それは、「失敗と成功の責任を、自分で全部負うからこそ面白いんでしょう」ということ。責任は「面白い」とつながっている。


 この番組を観て、先の日本選手権の400MH決勝で、奇跡の優勝を決めた後、彼が両手で顔をおおい、コースに倒れ込んだ歓喜の意味が初めてわかった気がした。不調が伝えられ、試合前の怪我にも悩まされた男が、それでも「1人で戦うことが面白い」という考え方も曲げずにつかんだ五輪出場権だった。
 約30mほどの距離でその瞬間を目撃していたはずのぼくも、見ていながら実際には何も見えていなかったことになる。


 反対にいえば、「自己責任」という言葉に、ネガティブな響きを聴く人は、そもそも生きることに後ろ向きなんだ。目先の損を慎重に避けつづけた挙句、気がついたら人生そのものを棒に振ってしまう。いや、棒に振ってるという自覚すらないかもしれない。そういう人は、「責任」を回避することが楽だとしか考えないから。


 極論すれば、為末だけでなく、誰もが自己責任でそれぞれの日常を生きている。そのことに彼ほど自覚的かどうかの違いでしかない。
 会社や学校にその一部、あるいは大半を委ねていると思い込んでいる人もいるだろう。でも、それはただの錯覚。その会社や学校を選択したのは本人だから。

 
 そして、俺もまだまだ甘い。いろんなところに逃げ場所を持っている。その逃げ場所の分だけ、中途半端だ。