広島でのこと(3)〜忘却せざるをえなかったこと

 もらい泣きした。想像を絶する惨状に直面したとき、人間はどこかで壊れるのだろう。いや、少し壊れないと、それから生きていけない、そんな弱さを抱えた生き物と言った方がいいかもしれない。


 初めて観た広島平和記念資料館は、予想通り、見れば見るほど心身ともにしんどくなる空間だった。広島市内に原爆が投下された、1945年8月6日8時15分で止まっている腕時計。男女の区別さえつかない大火傷で横たわる人たちの写真。千羽鶴を折れば、病気が治ると信じて千代紙を折り続けた17歳の少女が、ガンを発症して亡くなるまでの紹介。
 今回の原稿を書く上で、どうしても見ておかなくてはいけない場所だった。


 そういう積み重ねの上で、昔放送されたNHKスペシャルの映像にとどめを刺された。同館3階のおみやげ物売り場隣の、視聴コーナーでのこと。原爆の記憶を風化させないために、広島市が同市民達から募集した、8月15日の光景を絵にした人たちを取材した番組。戦後50年をすぎて、老境に達した生存者たちが、絵の巧拙をこえて、次世代への遺言として懸命に搾り出したような力作が並んでいた。


 崩れた中学校校舎の下敷きになり、左腕から血を流しながらも、炎の中で動けない少女を描いた一枚が、ぼくの胸をついた。少女を前にして、何もできなかった悔恨があふれる絵。たとえ片腕を切り落としてでも、彼の命を救うべきだったのではないか。その自問自答が、その初老男性の生涯につきまとった。


 戦後、彼はその思いをずっと心の底に沈めてきた。忘れようと懸命につとめてきた。でないと、今日一日を生きのびることができないから。想像を超える地獄図を前にしたとき、人間の脳もパソコン同様にフリーズする。忘却は、時にわたしやあなたの生命維持機能でもある。


 その男性が、自分が描いた絵を中学校の生徒達に見せながら、当時の状況を嗚咽まじりで語っていた。その懸命さに、観ていて胸がつまった。それも平和を創りだす努力のひとつにちがいない。