ことばウオッチ〜より強靭なリアリティの在り処

 

 永作博美さんが対談番組に出ていて、「その役を守ってあげられるのは私だけだから」と口にした。極端な役柄に、人間らしさを吹き込む想いを語った言葉。


 ぼくの書く言葉は、と考えてみる。それは往々にして登場人物たちに近寄りすぎる。もっと突き放すことで距離感を保ちたい。それによって文字上の彼ら彼女らに、より強いリアリティを与えられないものか。


 スガシカオの『夜空ノムコウ』には、予備校時代の彼女と、ある冬の日にベンチで延々としゃべり続けた末に見た情景が織りこまれているという。「自分がその瞬間を描きたいと思った情景は、それだけでも必ず他人の心にも届くと思う」と、彼がテレビで熱っぽく語っていた。


 ちょっと勇気づけられる気が、ぼくはした。何を書くのかは、何を書かないのか、ということ。そこが難しくて、そこが面白い。だから終わりも、正解もない。


 同じようなことを、落語家の柳屋小三治が、故・志ん生の言葉から引用していた。
「(落語を)面白くするには、面白くしないことだ」――小三治は、いたずらに技巧に走らず、時代を超えて残ってきた噺とこそ、真摯に向き合えという意味と受け取った。


 68歳の小三治は、それぞれの欠点を持て余す、市井の人たちが躍動する落語の世界を通して、一番下からモノを見る必要を感じたという。20年前、リュウマチという病を得て、人のありがたみが身に沁みる感受性が身についたので、病気になって良かったと話した。落語家としての彼の業(ごう)に痺れた。


 おれは、どんな場所から、取材対象者と向き合っているのか。そんなこと、まるで考えたことがなかった。一番上でも一番下でもない。いったい、どこからだろう?