被爆ピアノが教えてくれたこと(後編)

亡き父と孫たちへの想像力 


 矢川は約半月かけてピアノを解体。動かない鍵盤も多かったが、内部はほとんど壊れていなかった。切れていた2本のピアノ線を取り換えただけで、あとは修理を重ねて組み立て直した。
「黄ばんだ鍵盤や、ガラス片の傷などをきれいにしてしまうと、ピアノの歴史が消えてしまうと思ったからです。でも、ほとんど音が出なかったピアノが、ここまで張りのある音を出せるようになるとは、正直思いませんでしたね」
 そう話す矢川は、被爆ピアノを修理する過程で、78歳で他界した彼の父親のことがふいに思い出された。ミサコさんのピアノと出会う前年だった。
「私にはこのピアノが、まるで親父の代わりに、工房にやってきたような気がしてならないんですよ」
原爆投下時26歳の父は、消防団員として爆心地から800mの消防署内で被爆。崩れた建物の下敷きになって片腕を骨折。父は血まみれになりながら、動く方の手で腰の短剣を使って、瓦礫の山に穴を空けて声を上げ、辛うじて引っ張り出してもらった。一面の焼け野原で方向がわからず、川ぞいに必死に歩いて、翌朝、自宅にたどり着いた。その途中、少年らが黒焦げの海老のようになって死んでいた。
 それらは、原爆投下の7年後に生まれてきた矢川が、物心がついた頃に父から聞かされた話。だが、それを語る父親の辛そうな表情は記憶に残っているが、1960年以降の高度成長期に青春を謳歌する矢川には、どこか遠い国の話のようで、現実味が感じられなかった。
 しかし、ミサコさんのピアノと出会ったことで、矢川の胸に、もっと父の話を聞いておけばよかったという悔恨が生まれた。彼が音楽好きになったのは、当時珍しかった蓄音機で父がよく聴いていた唱歌などに、子どもの頃から親しんでいたことも大きい。だが、その父も、終戦後は無理がきかない体になり、晩年は入退院を繰り返した。
「父と比べて、僕の青春は恵まれすぎていたなぁと思ったら、まるで無尽蔵の電気や水のように、平和を考えてしまっている自分にようやく気づきました。すでに私には孫がいましたから、その子たちも戦場には送りたくない。だから次世代のことも考え、自分ができる平和運動として、被爆ピアノのコンサートをやっていこうと決心したんです」
 矢川の申し出を、ピアノの持ち主のミサコさんも「思うようにして下さい」と快く認めてくれた。言葉にこそされなかったが安心したような表情でした、と彼は話す。


米国の子ども達に聴かせたい 
 今年4年目になる、ミサコさんの被爆ピアノによるコンサートは、8月18日時点で約300回を数える。その約6割は小・中・高校で約180校。残り4割は、平和団体などが主催するコンサート。矢川は全国各地に出かけて、5000人超を動員してきた。北海道の中学2年生の男の子は、「矢川さんは奇跡のピアノだと仰ったが、ぼくは原爆の恐ろしさを伝えていくために必然的に残されたピアノだと、その音色を聴いて思いました」という感想文を送ってきてくれた。沖縄の老人ホームでは、戦時中唯一の陸上戦闘地域となった沖縄戦を経験した男性が、ピアノの音色を聴いただけで涙を流し、「まさしく平和の使者だ」と喜んでくれた。   
多くの人々の心を揺さぶる被爆ピアノの再生とその活動は、核兵器が増えつづける世界に向けた「モノづくり」であり、「ヒトづくり」である。
一方で、ピアノを通じての多くの出会いは、お金では買えない、私の大きな財産だとも矢川は話す。
「平和や反核運動には無関心だった自分が、ここまで変わるなんて想像もしませんでした。多くの出会いを得て、とくに私自身がこの5年間で大きく成長したと思います。音楽には宗教も思想も国境も関係ない。このピアノを通して、多くの人が平和を考えるきっかけになればいい」
 56歳の彼の夢は、アメリカの子どもたちにも、このピアノの音色を聴いてもらうことだ。
 矢川によると、戦前に作られたピアノは、山の良質な木を使い、どれも手作りで、製造段階で購入者の孫やひ孫の代まで使えるように仕上げられている。だから、製造から60年程過ぎてからの方が、木材の乾燥もじゅうぶんに進み、一層よく鳴る状態になるという。取材後、彼が戯れに弾くと、製造から76年目の被爆ピアノは力強い音を響かせた。
(了  文中敬称略)