萩上直子監督『トイレット』

 萩上監督の静かでたんたんとした画面が好きだ。
 登場人物たちも言葉少なで、気のせいか、それぞれが黙って座っていたり、あるいは歩いていたりする場面が目立つ。
 その代わり、母親の形見のミシンがひさしぶりに立てる音や、餃子を炒める音、長い沈黙の後でトイレを流す音や、タバコを吸うためにマッチを擦る音が、生活のリズムを刻むものとしてきちんと聴こえてくる。それぞれの音が雄弁に映画を物語ろうとする。
 この人は今、いったい、何を、どう想っているんだろう?
 登場人物たちの心境を、観る側に想像させずにはおかない隙間がたっぷりとある。


 映画の舞台はカナダのある街。
 日本人の母親の突然の死によって、3人の子供たちが生活のバランスを失い、いらだち、ぶつかり、そしてつながっていく。母親が亡くなる前、日本から急きょ呼び寄せられた日本人の「ばーちゃん」は、それぞれのうまくいかない人生をそっと後押しして・・・・・。


 この映画には、いろんなズレが描かれている。
 自分が何者で、これからどうなりたいかがわからない女子大生の妹。すばらしいピアノ演奏力の持ち主なのに、心の病で長らく自宅に引きこもっている兄。ガンダムのプラモデルオタクで、職場と自宅の往復以外は、世間と没交渉な研究職の男。そして英語が話せず、カナダまでやってきたものの、実の娘の死以来、孫たちとの暮らしの中でかたくなに黙りこむ「ばーちゃん」。 


 この映画のクライマックスで、ばーちゃんが劇中唯一発する言葉も、その使い方や意味はどこかズレている。
 それでも彼女の思いはきちんと伝わり、子どもが新たな人生に踏み出すのをしっかりと手助けする。生き方に迷う孫をかけがえなく愛おしむ気持ちが、言葉のズレという壁を軽々と飛びこえてしまう。


 よく考えてみれば、観る側のわたしとウチの奥さんや、友人たちとの会話も、自分が思うようにきちんと相手に伝わっているかどうかは、すこぶるあやしい。いや、冷静に考えれば大なり小なり誰もが、言葉が通じるからお互い理解し合えているなんて、きっと口が裂けてもいえない現実に気づくはずだ。