池田晶子著『死とは何か さて死んだのは誰なのか』(毎日新聞社刊)


 王様は裸だ!――そう口走る少年や少女の登場は今も昔も痛快だ。たとえば、故・池田晶子はこんなふうに斬り込む。

臓器移植法は「臓器移植する場合に限り、脳死は人の死」と決めました。同じ脳死の人でも、臓器を提供する人は死んでいて、提供しない人は生きていることになる。こんな理屈は通りません。
(中略)
では、臓器移植の技術を誰が望んだのか。必ずしも患者ではないと思います。臓器移植技術が存在したから、患者が望むようになった。それがなければ、患者は自分の運命や残りの時間をどのように生きるのかを考えたはずです。技術があることを知ったために、移植を受けるともっと生きられるのではないかと考え、かえって迷うことになる。科学技術が死を考える機会を奪い、余計な迷いをもたらしたと思います。   
           「人生は量ではなく質」より抜粋引用

 ひとつの技術革新が、倫理や人生の優先順位を踏みつけて暴走する。手段が目的にすり替わり、そこに利権構造が形づくられ、その存続だけが絶対視されてしまう。池田さんの言葉は、そのカラクリの中心を、とてもきれいに撃ち抜いている。


 そんなアベコベはあちこちに散見される。原子力発電と人の安全や幸福との関係も同じ。もはや、その惨状と混乱は技術大国のなれの果て。クリスマスイブの夜に、素敵な言葉と出会えたことに感謝したい。


死とは何か さて死んだのは誰なのか

死とは何か さて死んだのは誰なのか