一点の赤み

 舞台に上がる前、落語家がその演目をおさらいすることを、「噺(はなし)をさらう」という。マンションのダイニングキッチンの流し台前で、故・立川談志がさらう人情噺「芝浜」がよかった。この年始年末、もっとも印象に残ったテレビ番組の映像。たしかNHKBSプレミアでの追悼ドキュメントだった。


 昔、談志さんの落語を2回ほど生で観たことがある。一度は観客として、一度は知り合いの紹介で無料の立ち見。ところが、ありがちな話だけれど、鮮烈だったのは後者のタダ見のほう。


 演目も忘れたが、ありがちなお馬鹿なお殿様と町人との噺だった。とてもエネルギッシュに演じていたように記憶するが、お殿様がどこか憎めない人物として描かれていた。その人のいいところもも悪いところも、母親のように抱きすくめて、ただただ肯定する、そんなスケールの大きさが話し手の構えにあった。


 それにくらべたら、冒頭の流し台前での談志十八番の「芝浜」は、さらっているだけに、声もぼそぼそとしたものだし、普段着だし、「業の肯定」といった奥行きもなかったが、その小ささゆえにむしろ心にしみた。


 この噺は、酒好きな魚売りの亭主が、海辺で大金をひろったことを、女房が夢だと思い込ませてしまい、亭主はそのときから断酒して真面目に働き、自前の店まで持つようになって初めて、女房が拾った大金が本当だったと告げて謝る、というもの。


「お願いだから、あたしのこと嫌いにならないで」
 そう話す女房が愛くるしい。
 長年連れ添った夫婦の絆がふいに揺らぐ。ありきたりのはずの日常のそんな裂け目に、物語がぎゅっと凝縮する。がんを患い、落語からしばらく遠ざかっていた名人が、それを骨身に染み込んでいる芸として淡々とさらうとき、モノトーンの物語にふいに頬紅程度の赤みが一点差す。