ときどき池田せんせい(1)〜恋愛こそが試される
「動物としてのセックスがある分だけ、恋愛こそが試されることだ。先は長いけど、そんなに長くもない。健闘を祈るよ」
土曜日の朝、ベッドでごろごろしながら、池田晶子著『14歳からの哲学』をふたたびめくっていて、「恋愛と性」のこの結びをみて、う〜〜んとだまりこんだ。ちなみに、その前文はこう。
「恋愛やセックスも、その数の多さだけで誇れるものではないだろう。だって口があるなら好きだと言えるし、性器があるなら性交はできる。そんなのは誰でもできることなんだもの、しょせん動物なんだから。」
と、かなり実もふたもない。そしてこうつづく。
「誰にでもできないことは、動物ではない人間にしかできないことは、その人のことを愛することが、自分を愛することである、そういう恋愛をすることだ、自分を愛せる人でなければ、他人を愛することはできないのだったね。恋愛も同じだ、いや、」
となって、冒頭の言葉につづいて終わる。
この「愛する」を、じぶんなりにどうかみくだくか。
・・・・・・・せいぜい、「たいせつにする(あるいは、たいせつにおもう)」とか、「できるだけ、その人の立場にたってそうぞうしてみる」ぐらいかな。ひ、ひっ、貧相だなぁ、おい。
ただ、このひと月ほど、ひとりで生活してみて思うこと。
それは買物して、たべる物をつくって、たべて、あらい物をする。それだけで2、3時間はつかう。いや、正確には「つかってしまう」だな。
その一連のことはなかば習慣でもあるけれど、やはり「その人をたいせつにしていないとできない」ことでもあり、「その人をたいせつにする」ことでもある。だから、とてもありがたいこと。
きちんと生活するとは、きちんと相手と自分をたいせつにすることなんだろうなぁと。それなのに、「時間をつかってしまう」と書いてるうちは、まだまだバカやろーだ。まっ、ほんじつの結論は「バカやろーだ」なんてお恥ずかしいけど、また、こりずにかみくだいてみます。