ノロ・エンプティ

 びろうな話で恐縮だが、出張から戻った日の深夜に17年ぶりに嘔吐した。帰りの新幹線内でも悪寒がしてダウンを着込んで、手袋までしてひたすら寝ていた。風邪の初期かなと帰宅後に入浴して身体を温めたのだが、まず下痢が始まった。そして嘔吐。だが発熱はなかったので、今流行のノロウィルスかどうかは不明。翌日は食欲は皆無で、ポカリスエットを飲んで石牟礼道子さんの「苦界浄土」を読んでは寝て、をくり返して終日すごした。


 文字通り、空っぽな身体と頭でぼんやりしながら、でも意外と気分はまんざらでもなかった。窓から差し込む日差しはとても暖かかったし、いつも情報や食べ物をあくせくと身体に入れるばかりの生活だから、出し尽くして空っぽな心身は、どこか新鮮でさえあった。もちろん、元来のマゾ体質だという点は差し引いても、だ。


 そのとき思い出したのは、17日のトークイベントで丹羽順子さんが話していた、エンプティという言葉だった。彼女がタイで瞑想を日課としながら体感したものとしての、心身ともに満ち足りたエンプティ。じつは7日の紀伊国屋書店でのトークイベントでも、彼女は「その過程がスローでもファストでも、進む方向が同じなら本質的には何も変わらない、私はむしろ前向きなバックこそが今もっとも大事なんじゃないかと思う」と話してもいた。ぼくは虚をつかれながらも、一見ドラスチックに聴こえもするが、とても本質的な指摘だと直感した。


 なぜなら、彼女はこのときこう続けた。荒川さんに書いていただいた自分の章を読みながら、あらためてなんか私ってバタバタしててカッコ悪いなぁって思ったんですよ、と。これは忙しいことが充実と等価で、スケジュールの空白が人生の不毛に見えてしまいがちな(ぼくを含めて)2012年の日本人の倒錯の正体を、端的に射抜いている言葉だと思えたからでもある。


 個人的にも、あくせくと空回りをつづけてきた49年の我が軌跡を振り返っても、たいした果実は見当たらない。ならば、あくせくを捨てるように努め、むしろ悠々と進み、日々の終わりに笑ってすべてを肯定する。そんなエンプティに舵を切ってみてもおもしろい。バカボンのパパを真似て、「これでいいのだ」と。