空(そら)から空(くう)へ 〜宮崎駿監督『風立ちぬ』


 少年時代の主人公が夢の中で一人滑空するときの疾風や、避暑地で紙ヒコーキが戯れる気まぐれな夏風(それが代弁する恋模様までふくめて)、あるいは、試作戦闘機が墜落する際にまとう烈風まで――2時間近くの作品にはさまざまな風が吹いている。
 それぞれがストーリを押し進めると同時に、上品な甘みと苦みのミルフィーユのように多層な意味合いを映像に折り重ねていく。


 暗くよどんだ色調で描かれる1920年代の日常の低音部と、主人公の飛行機にまつわる熱情と空想、ただひとつの恋を描く明澄な色調の高音部とで、ひとつの旋律になっている。登場人物たちの喜怒哀楽を代弁するそれぞれの映像が、ここかしこで精緻でうつくしく、ああっ、できれば額装にしたいと、劇場の暗がりで心のシャッターを何度切ったことか。


 しかし、ただ、切なくてうつくしいだけの作品ではない。
 ヒロインの菜穂子は、愛する二郎に「生きて」と希(こいねが)うと同時に、「来て」と布団へと誘う女性であり、結核ゆえにべっとりとした血をキャンバスに吐いたりもする。宮崎アニメのヒロインでは、おそらく初めての生々しい肉体をもつキャラクターで、その立体感ゆえにより哀切に光っている。


 また、宮崎さんの次のような諦念が、映像の背後でしっかりと重心をとっている。
「夢は狂気をはらむ。その毒もかくしてはならない。美しすぎるものへの憧れは、人生の罠でもある。美に傾く代償は小さくはない」(映画『風立ちぬ』HPより引用)


 映画を観終わった人たちは、「空(そら)」は「空(くう)」とも読むことに、否応なく気づかされる。「空」は憧れや未知なるものの、「空」は喪失や無であることの比喩でもあり、それらの狭間を行き来しながら人は生きて、愛して老いて、病んで死んでいくことにも向き合わされる。
 ちっぽけな地球の長々しい時間の前ではそんなもの、一陣の風にも足りない。