身を粉にして書くこと ~ キャロル・スクレナカ著(星野真理訳)『レイモンド・カーヴァー 作家としての人生』


 2冊同時に読み始めて、途中からカーヴァーの評伝しか読めなくなった。もう一冊は、作家の大崎善生さんが書いた、故・SM作家団鬼六の物語『赦す人』(新潮社)。前者のほうが、その筆致が淡々としながら、質量ともにとてもグラマラスで、筆者がいたずらに本文中に自らの顔を垣間見せないからだ。


 米国人短篇作家の軌跡でポイントとなる場所に、筆者自らが足を運んでじっくりと歩き回り、驚くほど多くの関係者の声に耳を傾け、カーヴァーの手紙などにもつぶさに目を通し、それぞれの時代背景と関連する彼の作品との整合性をもとりながら原稿を書き進めることで、作品の質量両方のグラマラスさがもたらされている。当然、星野さんの翻訳もすばらしい。それは各項目の、とりわけ文末の日本語がとてもかっこいい点に端的にあらわれている。そうでなければ、2段組みの本文で、725ページの本は到底読み終われなかった。


 自分が同じ仕事をするためには(それはけっして完成度ではなく、あくまでも必要とされるだろう労力としてという意味で)、その仕事だけに没頭して、少なくとも1年、もしかしたら2年以上はかかりそうな気がする。
 細部に厳格で、時間と労力をけっして惜しまない米国の評伝文化の良き伝統を目の前に突きつけられて、敬意と憧れと溜息が入り交じったような気分になる。


 カーヴァーの不真面目な読者にすぎない人間にとって、この本での最大の発見は、彼の作品の多くが彼の実生活を題材に創作されたものだったことを、あらためて思い知らされたこと。さらにそれが時に家族から苦情が寄せられるものだったことに、物語を書くことにすべてを捧げた作家の面目と狂気が感じられる。そういう意味で、村上春樹の解説の表題「身を粉にして小説を書くこと」は、カーヴァーの人生を見事に凝縮している。


 それは彼が50歳でその人生を閉じたとき、葬式に参加した友人の作家が語った次の言葉とも静かに呼応している。
「(カーヴァーは)人間の弱さについて自分が知っていること、感じていることと、弱さを抱える人を慰めるために自分が言えること、考えたことをすべて作品に書き込んだことです。<中略>彼は動詞や名詞を使うように、自分自身を使いました。<中略>それを彼がとても上手にやって見せたから、私たちは彼を深く知ることができたのです。そのおかげで私たちは感じました。<中略>自分自身が大きくなったことを」


レイモンド・カーヴァー - 作家としての人生

レイモンド・カーヴァー - 作家としての人生