生き物としての元気(3)〜大河の一滴としての歓喜 

 あの靖国通りの4車線を、ランナーが占拠しながら走っている光景は壮観だった。そのとき、かつて進路に悩んでいた20代前半、逃げ出すように出かけた中国・揚子江の広大な河面が、ぼくの脳裏に鮮やかによみがえった。あの大河の悠々たる流れと走る人たちの群れがダブって見え、さらには自分が大河の一滴になったような気持ちにさせられた。それは「歓喜」という言葉が、一番ふさわしいように思う。


 その間、不器用に迷いながらも生きてきた軌跡を、強く肯定させてくれた。そのとき、ぼくの命は高らかに躍動していたからだ。周囲からはひどくノンビリした躍動だったかもしれないが・・・。あるいは、芝公園を走り抜けていた15キロ手前。雲ひとつない青空を仰ぎ見たぼくは、ふいに両手をひろげて輝く空と感応していた。失速する27キロまでは、適度な緊張感と興奮で、本当に気持ちよかった。