自己肯定感を取り戻す(2)〜 8月31日 毎日新聞1面


 (前回のつづき)
 体内体感とは両親にしてもらったことを振り返ること。やはり思い出をたどると母親との思い出が圧倒的に多い。まだ保育園の頃、通勤するために最寄り駅に向かう母と手をつないで歩いたアスファルト道の光景。小学校1年生で学校のシーソーでなぜか右足のすねを骨折して、当初は母に毎朝校門まで乗せて運んでもらっていたボロい乳母車のこととか。


 しかし、そんな予定調和を打ち砕いたのが、夕食後の「ロールレタリング」と呼ばれる“一人文通”みたいな時間での出来事だった。まずは母の立場で、長男である自分に宛て手紙文を書く。母ならおそらくこう書くだろうなと思うと、予想以上にスラスラ書けて、書き終えてからハッとさせられた。
 母が(いや正確にはぼくだが)書いたのは、長短両所をふくめて、息子の生き方や働きかに対する無条件の全肯定だったからだ。それは子供への愛情以上に、広大で何物にも微動だにしない強固なものだと感じられて驚かされた。


 約6年前に亡くなった母に背中からふいに抱きしめられたような感覚に包まれた。その瞬間、涙腺が熱くなってぼくは慌てた。体験取材で自分の感情がここまで揺さぶられてしまうなんて……。このロールレタリングを一人で反復することで、愛し愛される関係としての親子関係をより深く見つめ直していく。
 ぼくの場合、亡き母と“対話”する中で、「人は欠点が多いからこそ自分を肯定してやる必要がある生き物だ」という一文を授かった。それは母の言葉としてこぼれ落ちた予想外の視点だった。


 柴田久美子会長(一般社団法人「日本看取り士会」)によると、こうして過去を親の立場で振り返り、時代を区切って自分が親にしてもらったことと、して返してあげられたことを丁寧に思い起こしていくと、親子関係の良し悪しに関わらず、誰もが親から愛されている(されていた)ことを確認できて、それが強い自己肯定感に反転するという。その過程で涙を我慢してはいけない、その涙によって心が浄化されるからだという彼女の言葉にぼくも少しホッとした。

自己肯定感を取り戻す(1) 〜 読売新聞8月28日朝刊の広告

 きっかけはおよそ3年前の新聞記事のスクラップだった。
ふと思いついて去年の10月頃に昔のクリアファイルを見返していて、目に留まったのは白いブラウスで両手のひらをこちらに向けて微笑む女性の大きな写真が掲載された東京新聞の記事。柴田久美子・一般社団法人日本看取り士会会長のインタビュー記事だった。島根県の離島のグループホームで、終末期の高齢者を抱きしめて看取るに至る彼女の軌跡が紹介されていた。


 私の母は6年前の東日本大震災の4日前に急逝しているから、その3年前にピンときてもおかしくなかったが、そのときは切り抜いたままだった。が、去年の10月に再びその記事を見たときは、思わず企画書を書いていた。月刊誌での取材が決まり、鳥取の温泉地に取材で出かけたのが去年の11月。体内体感と言って、自分の両親との関わりを親の立場で振り返り、時代を区切って自分がしてもらったことと、して返したことを丁寧に振り返るということに2泊3日で取り組んだ。
 そのときに初めてお会いした柴田さんは、身長150 cm・体重40kgと写真の印象とは違ってとても小柄な方だったが、その口角がきれいに上がる笑顔は同じだった。


 体内体感の体験は今回の拙著でも少し紹介したが、ネットも携帯電話もテレビも一切遮断して、ただ親との関わりだけを集中して思い返すという独特な時間だった。例えば、子供の頃に半ズボン姿で一人写っている写真の記憶でも、親の立場で振り返ると、そこには当然撮影している父親と、その側で微笑みながら佇んでいただろう母親の存在に思い至る。それまで考えもしなかった家族のほがらかで温かな時間が、そのひとりぼっちの写真から浮かび上がってきた(つづく)。

つややかな緑色の流線型

 万願寺唐辛子と獅子唐(ししとう)がほぼ似たような、小ぶりな白い花を咲かせるなんて知らなかった。どちらも花が枯れた箇所から大小の艶やかな緑色の実をふくらませることも、プチトマトはその茎も葉っぱからもあの濃厚なトマトの匂いがするなんてことも、だ。
 結局は何も知らないまま、いや、何をどう知らないかさえわからないくせに、「もう何でも知ってんだぜオレは」と少しつまらなそうな顔で錯覚したまま、ぼくは老ぼれて死んでいくしかない。肉厚な万願寺唐辛子や、酸味と甘みのバランスがいいプチトマトがこっそりとそう教えてくれる。


 万願寺は辛くない品種なので、茄子と一緒にサラダ油を多めにひいたフライパンでしんなりするまで炒め、大量の生姜と適量のニンニクをすり下ろしたポン酢につけて煮浸し風にする。少々オイリーだけど茄子はうまいし、万願寺の肉厚な実は歯ごたえがいい。獅子唐は軽く網焼きして、味噌や酒、みりんや砂糖、すりごまと一緒に混ぜて水分を飛ばしながら炒める。かなりピリピリ辛くて数日すると味噌にも辛味がついて玄米や煮かぼちゃ、納豆にも合う。
 地道な水やりとプランターの土と日光でふくらむ唐辛子のつややかな緑色の流線型と、週2回ほど走りながら心臓がドクンドクンする自分のいのちが、朝の狭っちいベランダできれいに交差する。 

*[book]不思議な風 〜 本日発売『抱きしめて看取る理由』(ワニブックスPLUS新書)


 生きていると、時おり不思議な風に吹かれる。
 事前に拙著を献本したNHKの人からも、週刊AERAの人からも「看取り士」という言葉を初めて知ったというメールが来た。そんな状況で昨日発売された『週刊文春』で大々的な看取り特集が掲載され、一般社団法人「日本看取り士会」の柴田久美子会長の写真と「看取り士」という仕事が紹介された。発売前日に「看取り士」という言葉が40万人近くに一気に流通した後に、4冊目の拙著が店頭に並ぶという幸運に恵まれた。文字通りの予想外。できるだけ目立つ場所に並べられるとうれしいな。


 大病院の人寂しい裏口からではなく、たとえ狭くても最期は自宅玄関から肉親を堂々と送り出してあげたい。そんな希望を持つ人たちを支える「看取り士」という仕事に着目して、彼女らがつくり出す温かくて幸せな死の時間を描くことに挑みました。親御さんを自宅で看取った方々などを訪ねて、泣き笑いの時間を共有しながら生まれた一冊です。暗く冷たくて、病院では「残念な敗北」として扱われれている死の先入観をどこまで覆せているかどうか、ご感想をお待ちしています。

アンバランスなバランス 〜 オリヴィエ・ベラミー著・藤本優子訳『マルタ・アルゲリッチ 子供と魔法』(音楽之友社

マルタアルゲリッチ 子供と魔法

マルタアルゲリッチ 子供と魔法



 Apple Musicのリコメンドの中から選ぶと、思わず背筋が伸びるような毅然さと繊細さがギュッと詰まったピアノの旋律が流れてきた。ぼくが好きなバッハのパルティータ第2番だったから、なおさら心惹かれた。「マルタ・アルゲリッチ」という名前は以前から見聞きしていたが、その演奏を聴いてみようと思ったことはとくになかった分、好奇心が一気に増した。
 若い頃のアルゲリッチの、童顔ながら向き合う相手を丸裸にしてしまいそうな視線のモノクロ写真の装幀と、白抜きの明朝体で小さく印字された「マルタ・アルゲリッチ 子供と魔法」という表題のバランスが絶妙で、ジャケ買いっぽく手を伸ばしたのがこの一冊。


 60歳を越えてなお、演奏直前で「だめよ、無理」と泣きじゃくる天才肌の演奏家の脆すぎる一面から導入する序章がうまい。この書き手なら、という信頼感がふくらむ。実際に24歳でショパン・コンクール優勝を果たした天才肌の「光」と、恋愛には中高生レベル以下の無防備さを見せる「影」のコントラストも鮮やかで、下世話な読者としても食指をそそられる。その演奏の「魔法」っぷりと、ドタキャンで有名な演奏家としての「子供」っぷりは、本書の中でも旋律の高音部と低音部のように並走している。


 彼女の演奏力に惹きつけられて生活を共にすると、ピアニストとしての劣等感が膨れ上がって壊れていく男たちの無残さも克明に描かれていて、優れた芸術家であることと、実人生の幸福の交差点をなかなか見出せない。「天才ゆえの孤独」は演歌のサビほどにも使い古されたフレーズだが、読者として目の当たりにすると心臓を爪で少しつねられたみたいにやるせない。ベラミー氏の取材力と構成力が冴えわたっている。


「白髪の冠は彼女の顔を明るくし、奇妙なことに、かえって若々しく見える。『少しおかしな老婦人になりたいの、やりすぎない程度にね』と若かった頃に言っていた。いつも身につけているウールの組紐ブレスレット、安物のネックレス、色とりどりの布バッグ、サリー風のワンピース。マルタは人からにやりと笑われることを恐れない。それは本物であることの代償だ。」


 292ページまで読み進めてきてこの文章に出くわすと、背後に静かに微笑みながらたたずむ76歳のアルゲリッチと向き合っているような気がしてゾクゾクした。

「京都慕情」は錆(さび)つかない

 夕食どきにテレビを観ていて、エンディングに流れてきた曲にふいに気持ちをさらわれる。普段と代わり映えしない日常に少し細波(さざなみ)が立つ。言葉数が少ないからこそ行間がふくらみ、旋律がシンプルだからこそ深くひびく。武田カオリの透き通った声がそれに拍車をかけている。これは単に歳をとったということか。

 はみ出してナンボ 中原一歩著『小林カツ代伝』

私が死んでもレシピは残る 小林カツ代伝

私が死んでもレシピは残る 小林カツ代伝

 具材がはみ出しているサンドイッチが好きだ。盛りだくさんで得した気分になれる。見ただけで目と心の満腹感もグンと高まる。
 実は、人物ルポにも同じことが言える。
 書き手が事前に整理したであろう起承転結の構成から、はみ出すエピソードが多ければ多いほどダイナミズム感が高まり、物語に引き込まれる。中原一歩著『小林カツ代伝』で言えば、こんな場面だ。


 中学生になって思春期を迎えた息子の健太郎が面と向かって自分に反抗するようになると、母であるカツ代はこんな見事な啖呵を切ってみせる。
「あなたがぐれるなら、私がもっとぐれてやる」
 えっ!と虚を突かれて絶句した後、ふいに両頬がゆるむ。意外性があって、なおかつ愛らしい。100点満点なら95点レベルのはみ出し感だ。


 つづいて、カツ代流の料理の着想を描いたこんな場面。
「私ね、紅ショウガの天ぷらが大好きで、よく大阪の黒門市場にある天ぷら屋さんに行くの。揚げるところをジーッと見てたら、山のように種を入れてるじゃありませんか。油の量はそんなに多くない。で、そうか、銭湯と同じだと思ったのね。少ないお湯でもみんながワーッと入ると、水位は上がる、と。よし、これは使えるってひらめいたの」
 え〜っ、そんな光景から料理に持っていくわけ!? 強烈な我田引水ぶりに、ニヤつく自分をもう抑えられない。
 

 そのどちらも読み手の想定ラインを軽々と飛び越えているので、どんどん楽しくなる。同じ波を間近で見たとしても、高い飛沫(しぶき)が上がり顔にかかったほうが人々はキャーッとなる。あの理屈だ。お腹の贅肉と土俵際の足以外ははみ出してこそ価値が生まれ、その分だけ彼女が病に倒れてからの記述に胸がきりきりと痛む。