イノダの悠々円卓

 2分の1枚分のバタートーストにクリームチーズをのせる。そこに生ハムをかぶせて頰ばると、カロリーは高めだが抜群にうまい。
 白ジャケットに黒い蝶ネクタイの60代後半と思しき男性が、ペーパードリップで1杯ずつ煎れてくれるコーヒーは、一口目に舌先の一点をチクリと指すような苦味がおいしい。これが「アラビアの真珠」ブレンドか。
 蝶ネクタイのおじさんがコーヒーを出す前に、グラスポットの上にコーヒーカップの皿をかぶせているのが垣間見えた。コーヒーを注ぐ前のカップを温めるのは私も自宅でやるが、皿への心遣いは「見せる」演出でもあるだろう。


 11月中旬の午前10時、イノダコーヒ京都三条店奥の円卓カウンター席で、ベテラン店員の所作まで愛でながらモーニングをいただく。開店したばかりなのに、道路側の禁煙席には誰一人いず、円卓の喫煙席にだけ6人も座っている。
 京都新聞を広げている常連らしき初老男性、隣の席にボストンバッグを置いた無精髭の30代男性、仕事仲間か中年男性2人組。そして口数少なめな30代のインテリっぽい中国人カップル1組。2人とも煙草を吸わないのに、わざわざこの時間帯に三条店の円卓喫煙席でモーニングを食すとは、京都の老舗喫茶店のエッセンスを体感するのが目的か。


 新たに70代の、近隣の商店主風の男性が円卓に加わると、「いらっしゃいませ」と言いながら、女性店員が反対側に積まれた京都新聞を抜き取って無言で差し出す。バトンリレーみたいな素早さで男性も新聞を広げる。
 その後で私の隣に座った小柄な中年女性は、モーニングを注文すると、自らスポーツ新聞を取りに行き、パラパラとめくってクロスワードパズル欄にいきなりボールペンで回答を書き込み始める。それをとがめる店員はいない。


 先に書いたボストンバッグの男性客は腰骨の3分の1程度の背もたれしかないカウンター席で後ろに反り返ってウトウトしているが、引っくり返るから危ないよと声をかける人もやっぱりいない。しばらくすると車椅子の男性を押して初老の女性が入店し、禁煙席へと案内されているのが遠目に見えた。
 店と客双方のスタイルが素っ気なく、穏やかに混ざり合うモーニングタイムは悠々と過ぎていく。三条店限定の午前10時から11時半まで、900円のモーニングセットはけっして高くない。


 

アーサー・ビナードさん「日本語は消滅に向かっている」(毎日新聞)

 くだらない政治パフォーマンスを「広告」と呼び、平成の嘘つき男を「チェーン店の店長」と蹴散らし、母国語もまともに喋れない子供たちに英語を押し付ける教育を「愚民政策」と斬って捨てる。インタビュー記事「日本語は消滅に向かっている」。そこらの日本人より日本の愛するがゆえの、言葉の鉄槌をご堪能ください。気づかないうちに「広告(スマホ)」に洗脳されている自分にゾッとします。まだガラケーだけどね。

本が勝手に動きだす〜憧れの晶文社と


 出かける前に書棚を探す。早川義夫『たましいの場所』、田口ランディ『根をもつこと、翼をもつこと』、古本屋で買ったスタッズ・タケール『アメリカの分裂』。どれも晶文社が発行した本で、それら以外でもたくさん読んできた良書を出す老舗出版社。本好きなら知らない人はいない。早川さんのエッセイ『たましいの場所』(ちくま文庫で読めます)なんて名著だし。


 その社長の太田泰弘さんが、アエラの拙記事を読んで下さっていて、その後、博報堂の加藤さんからのメールで僕のことが偶然伝わり、昨夜の飲み会が実現した。しかも太田さんは先月、お母様を亡くされたばかりだった。拙著『抱きしめて看取る理由』も読んでくださっていて、何本ものラインマーカーが引いてあった。「荒川さん、これが始まりですよ。まだ1回しか読んでいないので、あと2回読みます」とまで言ってくださって、仮にお世辞でもとてもうれしかった。


 加藤さん以外にも、同じ晶文社の浅間麦さんと、「東京・田園調布の小さな出版社」の吉田秀次がいらしてて、楽しい飲み会だった。神田神保町の源平酒家。太田さんの圧が強くて、なんか笑いっぱなしだった。この夜をセッティングしてくださった加藤さんにも感謝です。たとえその歩みがどうしようもなく不細工であっても、自分が20代で踏み出した一歩が間違っていなかったことを30年以上過ぎて確かめることができた。

たましいの場所 (ちくま文庫)

たましいの場所 (ちくま文庫)

ゆるさにぷかぷかゆだねる

 JR岡山駅前から後楽園行きのシャトルバスで通り過ぎたときから気になっていた。まだ午前10時半前なのに、駅前から伸びる桃太郎通りぞいにある少し色褪せた赤い暖簾のラーメン屋の前に5人が列を作っていたから。この老舗感満載の外観で、開店の1時間から並ぶとは相当な名店ではないか、と。


 後楽園をゆっくりと散策して高さ3、4mほどの巨岩を16分割して2カ所に据える権力誇示と、茶畑や稲田をも共存させるセンスを味わう。園のほぼ中央にある流店(りゅうてん)と呼ばれる休憩所で靴を脱いで板張りに両足を投げ出してみる。板の間の中央を水路が走り、石が据えられて、その水面に周囲の緑と青空を映すという趣向がイカしている。
 女性二人で職場や子育ての愚痴話に花を咲かせている人もいれば、昼寝を決め込んでいるおじさんや若者もいる。同じ庭園内に、高台から全体を一望できる場所と、こんなゆるい場所の両方をしつらえている気遣いが心地いい。仕事関連で読みかけの文庫本のページをめくると、秋めいた涼やかな風が頬をなでてきて気持ちがふっとゆるむ。


 庭園を出てバスに乗り込み、天満屋などを経由で岡山駅方面へ向かう中でふっと思い立って途中下車し、先のラーメン店へ向かった。一瞬の好奇心に身体をゆだねてみることにした。午後12時20分すぎだったが、やっぱり6人ほどの列ができていた。その列に並んでみたらなんと10時半開店だった。早っ!もしや岡山の人たちは意外とせっかちなのか。そもそもそれは遅い朝食なのか、早めの昼飯なのか、はたまた岡山式ブランチなのか。


 店内に入ると全13席の小さな店で、肩寄せ合うようにラーメンをすすっている。メニューは昔懐かしい支那そば風の天神ラーメン750円のみで、あとは卵の有無や肉の有無などでメニューが分かれる。こういう潔さは大好物!脂多めの濃厚な醤油味スープと極細の黄色い細麺のコントラストが際立っていた。ある種の郷愁と、最近はやりの濃口スープのマッチングが老若男女に列を作らせる秘密か。こんな純朴な味を愛する岡山の人たちの人柄と、後楽園流店の牧歌的な空気感が、ラーメンをすすりながら温まるぼくの身体の中でじんわりとつながっていく。


 満腹で近くのアーケードの商店街を歩くと予想外に丸善があり、気になっていた最果タヒの最新詩集『愛のつなぎ目』(リトルモア)を見つけて購入。都内と比べれば妙にだだっ広く、商店街の2階にあるジャズ喫茶でぼんやりとそのページをめくる。久しぶりのエトランゼ感と、平日の地方都市でのまったりとした昼下がりにぷかぷかとうかんでみる。


『私の命のほんのひとかけらは、きっと未来へはゆかずに、
 ひたすら過去へと遡っているはずだった。
 私が生まれるまえ、あの建物ができるまえ、合戦の気配、開拓の気配、
 走り抜けるニホンオオカミと、黒くなるほど生い茂った緑。
 私の瞳は私の知らないものを、すべて見て、ここにいた。  
                最果タヒ「ビニール傘の詩」より抜粋 』
     

愛の縫い目はここ

愛の縫い目はここ

哀願するミニトマト

「お願い、女優だから顔だけは殴らないで!」
 以前、夫から暴力を振るわれてそう哀願した人がいたという話に、ある種の健気なプロ根性を感じたことを思い出した。名前は忘れた。
 万願寺唐辛子と獅子唐とともに水をまめにやっていたプランターミニトマトが枯れてきた。その枯れ方が人の体で言えば、膝上から胸部分までがヤられていて、根元近くとてっぺんの葉や茎は青々としていて、黄色い花も咲き薄抹茶色の実もふくらませている。これからゆっくりと完熟に向かう。
 普通なら水を送る根元から一番遠いてっぺんの花や実の部分からダメになるはずなのに、実際には土中の水分や養分は枯れた部分を通り過ぎて先端に届けられている。


 検索すると、日照量が多くて雨が少ない南米アンデスが原産のトマトは元々乾燥に強く、養分が足りなくなると重要じゃない部分から枯れて、実に養分を送る性質があると書いてある。要はミニトマトなりのサバイバル戦略だった。しかも枯れた部分の枝元からポキリと落ちるのは、カビや雑菌が繁殖させないためのこれもトマト独自の防御反応だという。

 
 なんかたまらなく健気な合理主義を働かせる植物だと知ると、
「お願い、体なんて枯れてもいいから、花と実だけはちゃんと付けさせて!」
 立ち枯れミニトマトがそう哀願しているように見えた。
 気がつけば久しぶりに晴天が広がった今日、あれほど騒々しかった蝉の音がぷっつりと止んだ。1週間と言われるそのいのちを納得して生き切ったのか。自分がもしも立ち枯れトマトだったら、今いったい何をどう守り、何をきれいさっぱり捨て去れるのだろうか。

「不安で自信がない」が正しい 〜佐藤卓トークイベント(9月2日 GINZA SIX・蔦屋書店)

 だってミサイルが飛んできて、日本の上空を通過して落ちているわけですよとデザイナーの佐藤卓さんは言った。それでなくても混沌とした時代なのに、さらにそんな状況だから何も不安がないという人のほうが危ないんですよ。そう気づいたら、「不安で自信がない」ほうが正しいから、「不安で自信がない」から元気になっちゃったんです。

塑する思考

塑する思考